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連載・特集

緑地帯 岩崎文人 文学ノート残滴③

 東京帝国大学文科大学英文科を休学し、広島市に帰郷していた鈴木三重吉が、英文学の講義を聴いた夏目金之助(漱石)からの書簡(1905年11月10日)をもし受け取らなかったとしたら、あるいは、小説家鈴木三重吉、「赤い鳥」創刊者、編集者鈴木三重吉は、存在しなかったかもしれない。

 書信には、療養のために能美島にわたった三重吉に、「文章はかく種さへあれば誰でもかけるものだと思ひます」「写生文でも又は小説の様なものでもかいて御覧なさい」と記されていた。広島に帰った三重吉は、島での滞在をモチーフにして、短編「千鳥」を書き上げ漱石に送る。このみずみずしい抒情(じょじょう)作品は漱石の推奨により、「ホトトギス」に掲載され、三重吉は作家としての出発をする。復学後は漱石のもとに出入りし、緊密な師弟関係をはぐくむ。漱石のもとを訪れる教え子を中心にした集まり「木曜会」を提唱したのも三重吉で、漱石夫人鏡子の回想「漱石の思ひ出」(松岡譲筆録)には、そのことを含め多くのエピソードが語られている。それによると、「猫」の家として親しまれた千駄木町の借家から西片町の新しい家に、「吾輩は猫である」のモデル、暴れる猫を紙屑籠(くずかご)に押し込み風呂敷につつんで運んだのは、三重吉であった。

 この「猫」の家は若き日の森鴎外が住んだ家でもあるが、現在は愛知県犬山市の明治村に移築されている。三重吉が小説家から転身し、「赤い鳥」を創刊、編集者となるのは、18年のことである。なお、「千鳥」を執筆した三重吉の生家跡を示す生誕の地碑がエディオン広島本店壁面に設置されている。 (ふくやま文学館館長=広島市)

(2022年9月17日朝刊掲載)

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