×

連載・特集

緑地帯 岩崎文人 文学ノート残滴⑤

 井伏鱒二は「定本木下夕爾句集」序文に「私は戦争中から戦後にかけて備後加茂村に疎開中、釣友達として隣村の夕爾君におつきあひを願ひました」と記す。夕爾は、「ずいぶんちかしくしていただいた」「谷川の釣も、先生から教わったものの一つであった。山野村というところへ度々行った。乗物がなくて、五里の山みちを歩いて行くことが多かった」(「井伏先生のことども」)と書いている。

 木下夕爾は文学を志し、第一早稲田高等学院文科に入るが、義父の病、その死ということがあり、福山市御幸町の薬局を継ぐために愛知高等薬学校(現名古屋市立大学)に再入学し、卒業後は郷里に帰り、薬局を営むかたわら、詩人・俳人として活躍する。「田舎の食卓」(1939年)により文芸汎論詩集賞を受賞するなど、一定の評価を受けた夕爾であったが太平洋戦時下、発表の機会はほとんどなく、地方詩人としての寂しさをよぎなくされていた。こうしたなか、中央で活躍していた井伏鱒二、小山祐士(倉敷市)、村上菊一郎(三原市)、木山捷平(笠岡市)らが疎開してきて、交流が始まる。それぞれが再上京するまでの数年間の付き合いが夕爾にとっては特別のものであった。特に隣村に疎開してきた井伏鱒二とは親しく交わり、井伏に詩稿を見せ、のちには、短篇小説を送ったりもしている。井伏が随筆「私の好きな詩一つ」でとり上げているのは、小学校の国語教科書にも採択された夕爾の「ひばりのす」である。

 なお、59年、広島県詩人協会の初代会長に就いたのは、木下夕爾である。(ふくやま文学館館長=広島市)

(2022年9月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ