×

連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅳ <3> 開戦の下地 急進開化派 クーデター失敗

 開国後の朝鮮に、日本をモデルに近代化を目指す急進開化派が生まれた。来日した金玉均、朴泳孝らに福沢諭吉が手を差し伸べる。慶応義塾で留学生を受け入れ、朝鮮での新聞発行の支援にも乗り出した。

 印刷機や活字、職工を伴って渡航したのは福山出身の井上角五郎である。福沢邸の住み込み弟子で、明治16(1883)年1月のソウル到着時に22歳。前年の壬午(じんご)事変から清の勢力が強まる中、胆力で道を開く。

 井上は開化に理解のある国王に近づき、政府外交顧問になった。同年11月、新設の博文局から官報「漢城旬報」の発刊にこぎ着ける。16号まで出して帰国し、急進開化派の企てに加勢するため再び朝鮮へ渡る。

 企てはクーデターだった。ベトナムを巡る清仏開戦で清兵が朝鮮から撤兵を始めていた。金らは好機到来と明治17(84)年12月、ソウルでの郵政局開局祝賀会で決行する。

 政権有力者を殺害し、日本公使の竹添進一郎に派兵を依頼。国王を擁して新政権を樹立した。ところが数に勝る清軍の反撃で日本軍は敗退し、企ては失敗した。甲申(こうしん)事変である。

 公使の参画は内政干渉だったが、日本人居留民が殺害されて国内世論は激高した。福沢の時事新報は清との開戦論を主導し「進んで軍に北京に討死すべし」と書く。民権派の自由新聞も、武力を背景に親日政権を朝鮮に樹立することを主張した。

 好戦的な論調を追い風に、軍の薩摩閥が開戦を唱えた。長州閥の伊藤博文らは英国に仲裁を頼み、日清両国の朝鮮からの撤兵で沈静化を図る。伊藤と清の代表李鴻章による明治18(85)年4月の天津条約である。

 戦争は回避されたが、両国は朝鮮へ再派兵する権利を認め合う。開戦の下地は残ったままだった。

 朝鮮国内から親日派は一掃された。残った井上はハングル交じりの漢文による初の新聞「漢城周報」を明治19(86)年1月に創刊する。わが国の仮名交じり文に倣った福沢の発案による新文体。民衆層の開化に有用という提案を国王が採用した。

 新しい文体は後に広く定着する。「武」が突出しがちな時代に「文」による貢献だった。(山城滋)

井上角五郎
 1860~1938年。備後国深津郡野上村(現福山市)生まれ。誠之館、慶応義塾卒。朝鮮で新聞発行後、明治23年から大正13年まで広島県第9、8区の衆院議員。北海道の炭鉱、製鉄業にも関わる。

(2022年9月22日朝刊掲載)

年別アーカイブ