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知らせることの大切さに共感 8月2・3日掲載 漫画「声の新聞 力の限り」反響

戦争や原爆の情報に向き合いたい/祖父に代わり心からありがとう

 原爆投下直後の広島で、紙がなく新聞を発行できないから口で伝えようと走り回った「口伝隊(くでんたい)」を務めた記者を描いた漫画「声の新聞 力の限り」。中国新聞社が制作し、8月2、3日付朝刊に掲載した作品に、読者の皆さんから感想が寄せられました。子どもたちからは「自分だったら」と自らを重ねて考えた思いも届きました。(奥田美奈子)

 漫画の主人公は、当時20代だった八島ナツヱさん(2006年に87歳で死去)。きょうだいで一緒に投稿してくれた廿日市市の小中学生3人に尋ねると、その懸命な姿が心に残っていた。

 「自分だったら、とにかく母親を捜したいという気持ちが強くて、同じようにはできなかったかも」と自分を重ねて読んだのは、金剛寺小5年森本希承(きしょう)さん(11)。「みんなのためにと仕事を頑張ったのがすごい」と驚く。

 ナツヱさんが「安心してください」と繰り返す場面も気になったそうだ。「そんなの気休めだと思った。でも読んでいくうちに考えが変わった。信じがたい現実の中では、その一言も含めて、情報が求められていたのかもしれない」

 弟の1年倫承(りんしょう)さん(7)も「いろんなことをお知らせしてもらえた人は助かったと思う。ナツヱさんは優しい」とうなずいた。

 姉の七尾中1年笑易(そい)さん(13)は「本当のことが知らされない、という点でも戦争って怖い」と話す。落とされたのが原子爆弾だと伝えるのを、軍に禁じられた場面のことだ。

 「制限がある中でも、使命感を持って報道する人たちがいたんだと心を打たれました。いま、ウクライナのことが分かるのも、そんな人たちのおかげ。戦争や原爆の情報に、きちんと向き合っていきたい」と語った。

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 あまり知らなかった8月6日の惨状に漫画で触れ、心を痛めた子どもたちもいる。

 「お母さんが死んでしまって、子どもが泣いている場面が悲しかった」。広島市南区のAIC国際学院広島初等部3年成田孝高さん(9)は、そう振り返る。「読んでいるとき、部屋が薄暗く感じた。戦争は怖いと思う」

 広島市安佐南区の長束西小4年舛田凛さん(9)は、主人公のナツヱさんが焼け野原になった街を見渡すシーンが心に残ったという。「だって今は、こんなに緑でいっぱいなのに。こんなふうになったんだな…って」と驚く。妹で、1年の奏さん(7)も「戦争がなくなればいいと思います」と話してくれた。子どもたちは、ぐにゃりと曲がった建物の骨組みや死者が横たわる様子などから、原爆によって何が起きるのかを受け止めたようだった。

 大人たちからも声が寄せられた。「涙があふれました」とつづるのは、福山市の会社員女性(54)だ。警察官だった祖父を原爆で亡くしている。「壊滅した街では、少しの情報も安心につながっただろう。ひょっとしたら祖父も『声の新聞』を聞いたかも。祖父に代わり、心からのありがとうを伝えたい」とかみしめた。

 広島市安佐南区の会社員末岡裕次さん(48)は今夏、わが子と被爆電車に乗る体験をした。「被爆後すぐ、なんとか電車を動かそうとした人たちもいたんですよね」。復興を目指す、人々の力強さに思いをはせた。

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 紙面では、制作を担った地元の漫画家の思いも紹介した。怖い表現は抑え、原爆について「もっと知ろう」と学びを前進させられる物語にしたい―。

 広島市中区の保育士胡子節子さん(59)は「ナツヱさんの姿が、心の片隅に残っていればいい。いつか、その子なりのタイミングや方法で、その1こまの背景に何があったのかを学び、想像を膨らませることが大切だろう」と共感していた。

■漫画「声の新聞 力の限り」
 原爆投下直後の広島で活動した「口伝隊」の物語。紙がなく新聞を出せなくなった記者たちが軍の命令で結成し、救護所などの情報を声で伝え歩いた姿を描く。その一員だった中国新聞社の元記者八島ナツヱさん(2006年に87歳で死去)の手記や資料などを基に、広島市安佐南区の漫画家くぼなおこさんが制作した。中国新聞社が創刊130周年に合わせて企画した「まんが 被爆地の新聞社」全4編の1編。年内に冊子を発行する。

 被爆の惨禍から再出発した本紙の歩みを歴史的資料や証言を交えて伝える映像ドキュメント「1945 原爆と中国新聞」(約118分)も公開しています。

(2022年9月26日朝刊掲載)

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