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残された人生で証言活動 島根県被爆者協の原会長に聞く

 島根県原爆被爆者協議会の歩みや会員の被爆証言などを収めた結成50年記念誌「被爆者は訴え語り続ける」が11月、完成した。約3年の編集作業を終えた原美男会長(86)=松江市=に刊行への思いと自身の被爆体験を聞いた。(明知隼二)

 ―記念誌編集に込めた思いは。
 中学教師だった頃は被爆したと誰にも語らず、被爆者健康手帳の取得も退職後だった。語り始めるのが遅すぎた。記念誌はその償いと思って取り組んだ。

 ―被爆した時のことを教えてください。
 臨時召集を受け、1945年8月2日に18歳で広島の工兵補充隊に入った。6日朝は爆心地から北約4キロの祇園町(現広島市安佐南区)の兵舎内で食事をしていた。辺りがぱっと黄色くなり、数秒後に「パーン」と近くに雷が落ちたような、この世のものと思えない音がした。ガラスが割れ、目と耳を押さえて伏せていたが、何が何だか分からなかった。

 そのうち、太田川沿いは逃げてきた被爆者であふれた。8日に市内に入ると、あちこちで死体がくすぶっていた。

 ―その後は何をしましたか。
 9日から死体の収容を始めた。黒焦げ死体や腐敗でふくらみ始めた死体―。まともに持ち上げられず、トタン板に載せてはトラックの荷台に放り上げた。不思議なほど淡々と作業した。そんな中、赤ん坊を抱いたまま死んだ女性の黒焦げ死体があった。誰からともなく、離ればなれにならないようそっと運んだ。たった一つの人間らしい行いだった。

 ―いつ、松江市に戻ったのですか。
 9月に帰郷した。広島でのことは家族にも話せず、数カ月は家に引きこもっていた。どうにか復学して教師になったが、被爆したとは明かさず、広島への修学旅行でも原爆資料館には入らなかった。

 ―被爆者だと周囲に話し始めたのは、いつですか。
 70歳を目前にした97年2月、「このままでいいのか」と自問し手帳を申請した。妻(78)にも初めて話したが、「何となく分かっていた」と言われた。毎年8月6日、食い入るようにテレビを見る姿から察していたようだ。

 その年の春に妻と広島を訪れた。原爆慰霊碑に手帳取得を報告し、それまで被爆者だと名乗れなかった自分の弱さをわびた。

 ―今は小中学校で証言活動をしていますね。
 残された人生の仕事だと思っている。ただ、死体収容の現場で私たちが何をしたか、今なお正直に語れない点もある。最悪の部分は語り継げない。戦争自体が、そういうものなのだと思う。

島根県原爆被爆者協議会
 1963年結成。現在の会員数は696人。結成50年記念誌はB5判、257ページで、語り部活動や被爆者相談など会の活動記録をまとめた。今年3月31日現在の島根県内の被爆者は1405人で、平均年齢は83・8歳。

(2013年12月10日朝刊掲載)

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