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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅳ <5> 最初の議会 寝返りや妥協 予算案を可決

 明治23(1890)年7月に初の衆院議員選挙があった。選挙権があるのは直接税15円以上を納める25歳以上男子で、人口の1%余り。直接税の97%が地租の時代だから、ほぼ地主に限られた。

 選挙の結果は、藩閥政府を身震いさせる。300議席のうち民党(野党)が過半数の171議席を占めた。解党状態から再起した自由党系と改進党系が3対1の割合。積み重ねた自由民権運動の成果だった。

 中国5県の民党議員数は定数34に対し8。この頃から全国有数の保守地盤だった。広島(定数10)が改進党系3、自由党系1▽岡山(同8)は自由党系3、改進党系1▽山口(同7)と島根(同6)、鳥取(同3)は0だった。

 同年11月開会の第1回帝国議会では富国強兵か民力休養かが争点に。山県有朋首相は「主権線」の国土はもちろん、隣接の「利益線」(朝鮮半島)も守って独立を維持するには陸海軍費の増額が必要と演説した。

 対する民党は地主を代弁して地租を軽減するための政費削減を主張。予算案の1割近い788万円削減を譲らない。予算成立には衆議院の協賛が欠かせず、解散やむなし論も政府内に出始めた。

 初年度の解散はしかし、立憲国家としての当事者能力を欧米諸国に疑われ、条約改正交渉にも響きかねない。政府と与党は自由党系の切り崩しに乗り出す。与党議員で目立ったのは、福沢諭吉の弟子で後藤象二郎逓信大臣にも近い広島第9区選出の井上角五郎である。

 朝鮮政府外交顧問などの経験もある井上は「藩閥打破の政争による予算不成立は立憲政治に百年の悪例を残す」と主張。明治24(91)年2月に議場で2日間にわたり雄弁を振るい、議会内で壮士に襲われもした。

 買収資金も動いたとされ、高知や岡山選出などの二十数人が政府方に寝返った。翌3月には650万円削減の妥協が成立する。民党嫌いの山県首相も譲歩した。初回議会で失敗は許されない、との意識は民党側も共有していた。

 予算案は衆議院で可決され、貴族院も通過した。金権の染みは付いたが、国会が機能したのは東洋で初めてのことだった。(山城滋)

第1回衆院選挙
 投票率93.9%。おおむね公正に行われたとされるが、広島県では候補者46人中21人が検挙、処分を受けた。鳥取県第3区では紙幣入り菓子が持ち歩かれるなど買収や供応が行われたという。

(2022年9月24日朝刊掲載)

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