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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅳ <4> 軍拡路線 植民地化への恐怖が原動力

 自ら支援した朝鮮の急進開化派によるクーデター失敗がよほど身に染みたのだろう。清軍に鎮圧された甲申(こうしん)事変から4カ月後の明治18(1885)年3月、福沢諭吉は「脱亜論」を時事新報に載せた。

 朝鮮や中国の近代化を待ってはおれないから、日本も西洋文明国と共に両国の分割に加わるべきだ、との突き放した論調。朝鮮改造の夢破れた福沢が、後の大陸への膨張戦略を予言しているかのようでもある。

 事変後に日清両国は朝鮮から撤兵し、協調関係が10年近く続いた。日本はその間、2度の事変で思い知った清との軍備格差を埋めようと大型軍拡を進めた。酒、たばこ税増徴による財源で海軍は「三景艦」など軍艦の建造ペースを速め、陸軍も7個師団体制へ定数を大幅に増やす。

 幕末以降、日本人を軍拡へ突き動かしたのは西洋列強による植民地化への恐怖だった。その可能性はどこまであったのか。元治元(64)年の英国軍による調査は、長崎湾内に砲台が多数あって列強居留地の防衛ができないため日本との全面戦争は難しい、としていた。ところが、幕府や各藩はその後も砲台を築き続け、蒸気艦を争って購入した。

 短期集中型の軍拡は、危機に敏感に反応する国柄と言うべきか。清の政治家李鴻章は遅々とした自国の近代化に比べ、明治政府の軍備や鉄道整備の進度に驚き、警戒もした。

 清と協調関係にあった明治23(90)年、山県有朋首相は外交政略をまとめた。国土の「主権線」に加え自国の安危に直接関係する「利益線」の防護を盛り込む。

 軍拡推進の根拠として朝鮮を指す「利益線」の危うさを挙げた。シベリア鉄道を建設するロシアが朝鮮に進出すると「主権線は頭上に刃を掛くる勢」と。清との協調による朝鮮中立化が当時の山県構想だった。

 この時期のロシアに朝鮮進出の意図はなく、海で隔てられた朝鮮の防護が真に切迫した課題だったのか疑わしい。過剰な危機意識と大陸への膨張志向が表裏一体となり大軍拡が進められたとの見方もできよう。

 清に匹敵する軍事力を手に入れると、軍に主戦派が台頭した。一部政治家と結んで清との対決を選び、「利益線」に踏み出す。(山城滋)

大型軍拡
 壬午事変1年後の明治16年に開始。海軍に4千トン級「三景艦」3隻など巡洋艦や多数の水雷艇を導入。陸軍は予備役を入れて4万5千だった兵力を、近衛師団を含め7個師団で戦時約20万に拡充した。

(2022年9月23日朝刊掲載)

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