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社説・コラム

『想』 岩瀬成子(いわせじょうこ) 見えない巨大軍事基地

 かつて米軍岩国基地の前には、米兵を相手とする飲食店やバー、キャバレーなどが数多く立ち並ぶ界隈(かいわい)があった。

 その中に全米キリスト教協議会が運営する「Serendipity」というコミュニティセンターがあり、わたしはそこで1970年代の終わりから7年間スタッフとして働いた。たくさんの若い米兵や、バー街で働く女性たち、その地域で暮らす子どもたちが来ていた。若い下級兵士たちは孤独そうな人が多かった。仕事がなくて仕方なく海兵隊に入隊した人、家族からクリスマスカードも来ず、見放されていると感じている人、「アメリカにはもう帰らない」と語る人もいた。

 その彼らはしかし、一旦(いったん)軍から命令が下れば否応(いやおう)なく戦場に送られる身である。そして彼らに良くしてくれなかった国家や家族のために命をかけて戦わなければならないのだ。それが戦争なんだ、とわたしは考えた。

 わたしの家からは遠く瀬戸内海が見える。その手前には基地の滑走路が見えている。

 わたしの家のそばには以前、自然林に覆われた愛宕山があった。沢山(たくさん)の冬鳥が来ていたし、フクロウもいた。サルやタヌキも棲(す)んでいた。ところが10年前、この美しい山はすべて切り崩されて土は海へと運ばれ、そこに米軍基地の新滑走路が建設された。削られた跡地には米軍のスポーツ施設と、米軍の高級住宅260戸が建設された。

 岩国基地はいまでは巨大軍事基地となった。大型艦船がしょっちゅう入港し、最新鋭のステルス戦闘機はじめ数十機の戦闘機が配備されている。先ごろ無人偵察機も配備された。いつのまにか極東一の航空基地になり、岩国市の人口の10分の1は米軍関係者となった。

 なのに、である。岩国市民の目に基地は目に入っていないかのように、市民の関心は低い。どういうことなのだろう、と思う。都合のよい事実だけを見ていたいのだろうか。巨大化した基地が見えなくなってしまっている。いまでは基地前のバー街は消え、米兵たちは街に混じり込んでしまっている。(作家)

(2022年9月23日朝刊セレクト掲載)

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