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連載・特集

変わる都市像 呉市制120年 <1> 街の活力

軍港の繁栄から再出発

路面電車開業は県内初

 呉市にはかつて国内で6番目、県内では最初に開業した路面電車があった。市制施行から7年後の1909年、広島市よりも3年早く呉電気鉄道が走らせた(67年に廃線)。JR安芸阿賀駅近くの複合ビルの前に、ひっそりとモニュメントが立つ。「呉市電の変電所、車庫跡地」。プレートの文字が、近代都市として歩み始めた頃の呉の活力を伝える。

 旧海軍の呉鎮守府の開庁後、4町村の合併による呉市の誕生(02年)、呉海軍工廠(こうしょう)の設立(03年)が続き、呉には関連の工員をはじめ多くの人が流入した。発足当初約6万人だった市の人口は急増し、阿賀、警固屋、吉浦町を合併した28年には17万人台、43年には配給台帳上の数字で40万4千人を超えた。

終戦で人口激減

 いち早く整備された路面電車について、元呉市史編さん室長の千田武志さん(76)は「多くの海軍工廠勤務者を運ぶ交通機関が必要で、確実に乗客が見込まれるので投資もしやすかった」と解説する。線路は川原石―長浜間の11・2キロまで延伸。42年から市交通局が運行した。

 一時は「40万都市」に膨れ上がった呉。終戦を挟み、空襲による荒廃と海軍の解体で人口は約15万人(45年11月)に激減する。しかし、造船、製鉄など臨海部の重工業が栄えて街は活気を取り戻し、人口も右肩上がりに。郊外の宅地開発が進む。56年に昭和村が合併し、63年に中心部と結ぶ県道呉平谷線が開通すると、昭和地区には大規模な団地が整備された。

 昭和地区自治会連合会会長の神田晃典さん(86)は「呉の工場勤めの人が次々と家を建ててベッドタウンになり、スーパーも増えていった」と振り返る。市人口は75年ごろ、平成の大合併前では戦後のピークとなる24万人台に達した。

周辺8町と合併

 バブル経済の名残があった90年代にはJR呉駅前にそごう呉店、天応地区に呉ポートピアランドがオープンするが、にぎわいは長続きせず、いずれも閉業した。そして、呉の都市像を大きく変えるのが、2003~05年に果たした島しょ部など周辺8町との合併だ。かんきつに代表される島の特産品や桂浜(倉橋町)などの美しい海、御手洗地区(豊町)の古い町並みなどが、新たな魅力に加わった。

 下蒲刈町で地域おこし協力隊員を務め、退任後も地域活性化の活動を続ける高島俊思さん(48)は「(人口などの)数字よりも質を求めるまちづくりが進んでほしい。各地で活動する人の横のつながりを広げたい」と話す。(上木崇達)

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 10月1日に市制施行120年を迎える呉市。戦前・戦中は海軍工廠などを抱える「東洋一の軍港」として栄え、戦後はその設備や技術を土台に産業が発展した。著名なスポーツ選手も輩出。戦火や自然災害で街が傷ついた歴史もある。移り変わる呉の都市像を多面的にたどり、将来を展望する。

(2022年9月27日朝刊掲載)

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