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近代発 見果てぬ民主Ⅳ <7> 陸奥の開戦論 藩閥に属さず政権への野心

 保守派と改進党の共闘で対外強硬派は衆議院の過半数を占めた。在日外国人への嫌がらせとも取れる現行条約励行建議案を明治26(1893)年12月に提案しようとする。

 第2次伊藤博文内閣は英国との条約改正交渉への悪影響を恐れた。対外強硬派が建議案を説明する前、陸奥宗光外務大臣は発言を求めた。

 明治初年からの国力増強ぶりを陸奥は列挙し「条約改正はわが国の進歩を外国に認めさせるもの。現行条約励行は開国進取の国是に反する」と一方的に演説。建議案説明をさせないまま政府は衆院を解散した。

 強引な政権運営は貴族院の反発まで引き起こす。新聞はこぞって政府を批判し、対外強硬派を支持した。

 明治27(94)年3月の総選挙でも対外強硬派は過半数を占めた。内閣弾劾上奏案が可決されると政府は6月2日、再び衆院を解散。くしくも同じ日の閣議で朝鮮派兵を決めた。

 農民反乱に手をこまねく朝鮮政府が清に派兵を依頼した、との報を受けての措置。居留民保護の名目だが、広島の第五師団で編成された混成旅団は約8千の大部隊だった。

 当時の林董(ただす)外務次官の回顧録によれば、閣議前夜に陸奥と軍部開戦派の川上操六参謀本部次長が相談。多くて5千の清兵に必勝を期すには6、7千が必要との線で一致したという。閣議で川上は混成旅団を送るとだけ言い、人数に触れなかった。

 清と協調して朝鮮問題に対処するつもりの伊藤は、旅団は約3千と思い込んでいたようだ。閣議に出た山県有朋枢密院議長は「混成旅団の兵数を言えば伊藤が出兵を止めると思い黙っていた」と陸奥に語った。

 陸奥が、慎重な伊藤を開戦に押しやる構図。自らの挑発的な議会対応による失点挽回の好機だった。対外強硬派が朝鮮、中国への対応を弱腰と批判していたのも好都合だった。

 カミソリ大臣と呼ばれた陸奥は、開戦すれば対外強硬派が政府支持、挙国一致へ雪崩を打つと想定できたのではなかろうか。それにしても、なぜ開戦にこだわったのか。

 藩閥に属さず明治天皇からの信任も欠く陸奥だが、政権への野心を秘めていた。古い付き合いの林がある折、大成した政治家について「門閥世家の人を除くの外は、皆戦争の勝利によりて勢力を占めたる人」と言うと、陸奥は「ヤッテ見ようかネ」と答えたという。(山城滋)

陸奥宗光
 1844~97年。和歌山藩士家生まれ。幕末に海援隊所属、維新後に同藩で軍制改革。政府で地租改正を主導したが、西南戦争に呼応した挙兵計画で禁錮5年。政界復帰し農商務、外務大臣。日清戦争記録「蹇蹇(けんけん)録」を著す。

(2022年9月28日朝刊掲載)

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