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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 客員特別編集委員 佐田尾信作 被爆77年 ある証言者の夏

背中押した 亡き兄と今の友

 被爆77年の夏、ある被爆者が初めて公の場で自らの半生を明かした。呉市倉橋町長谷の理容師竹本秀雄、80歳。被爆直後の広島赤十字病院付近を撮った旧日本映画社(日映)のフィルムに、頭に包帯を巻かれ少年に背負われた幼子がいる。それが竹本だが、壮年になって気付きながらも名乗り出ることはなかった。

 爆心から1キロの広島市大手町(鷹野橋)に家族6人で暮らしていた。原爆で自宅は倒壊。8歳年上の兄定男に救出されたものの、動員学徒だったと思われる姉の一人を失う。その後一家は福岡県小倉市(現北九州市)へ移り住み、採石場で働いて生計を立てていたが、定男は交通事故で早世。やがて竹本は義兄たちの誘いで広島に戻り、26歳で呉市警固屋に理髪店を開業した。以来、理容師一筋の半生を歩み、5年前に閉店。今は倉橋の海辺で妻万喜江と悠々自適の暮らしを送っている。

 竹本には被爆の証しが二つある。

 一つは1961年に取得した被爆者健康手帳。もう一つは3カットだけ入手した16ミリモノクロプリントである。そこに写るのは11歳の定男に背負われた3歳の自分。背後に横転した車が見え、日赤付近で45年10月に撮られたことが後に判明する。

 日映プロデューサー加納竜一らの著書「ヒロシマ二十年」(弘文堂)には「万代橋(よろずよばし)の上には、その時歩いていたと思われる人の影が焼きつけられていた」「(島病院裏手では)小さな子供の片腕が石の下からでてきた」という回想がある。原子物理学者仁科芳雄らの調査団に同行して日映撮影隊が入った当時の広島はこのような惨状だった。その頃、竹本もまた幼いなりの脳裏に焦土の光景を焼き付けていたことになる。

 やがて映画は数奇な運命をたどった。翌年「広島・長崎における原子爆弾の影響」と題した2時間45分の作品に仕上げたのもつかの間、原版はむろん未使用のフィルムまで一切合切、連合国軍総司令部(GHQ)に没収されてしまう。しかし加納らはわざと現像所に二重に発注し、未編集のラッシュプリント一そろいを秘匿することに成功した。GHQの占領が解けると、すぐ一部の映像がニュース映画などに使われた。

 竹本の手元のプリントも起源はここにあるのだろう。親族が何らかの映像を見て竹本兄弟に気付き、譲り受けたという。今となっては詳しいいきさつは不明だが、プリントを竹本は大切に保管し、紙焼きして仏間に掲げてきた。その事実はごく親しい友人にしか明かさなかった。

 一方、中国放送記者の平尾直政は被爆50年の95年から名も知らぬ兄弟の消息を追ってきた。長大な日映のフィルムに写る場所や人物を特定すべくチームで取材を重ね、96年にテレビ番組「語り継ぐ原爆映像―焦土のカルテ」を放送した。だが兄弟を映しても名乗り出る人はなく「もう諦めていました」。それがこの夏、ついに対面を果たす。「生きとりました、生きとりました」と言って竹本は自宅に平尾を招き入れた。

 被爆者が半生を語るまでには何が必要か。「被爆者の心の調査」に携わってきた精神科医・臨床心理士の大澤多美子は「時間をかけて話を聞いてくれる人の存在があります」と言う。調査で被爆者に聞き取りをする際、つらい思いをさせるのではないかと危惧したが、実際は「話して気持ちがすっきりした」といった反応も少なからずあったという。

 竹本にも話の聞き手はいた。名乗り出ることを勧められ、拒んでもいた。だが、ことしは東広島市内で開く原爆展で写真を公表し、証言するよう求められて決意したという。竹本には「あんちゃん、ありがとう」という気持ちが心の奥底にある。焦土を生き抜いたのに青春を謳歌(おうか)しないまま逝った兄への思いもまた、背中を押しただろう。幼いわが身を託した兄の背中は仏陀(ぶっだ)か如来にも似たものだったと筆者は想像する。

 平尾は「私より後から取材した皆さんの方が詳しいはず」と苦笑いする。きっと語るうちに湧き出てくる思いもある。77年前の十数秒の映像が導く語りである。(文中敬称略)

(2022年9月29日朝刊掲載)

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