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「中国残留婦人」苦難の半生 千島寛さん 写真集刊行 広島出身の林さんら追う

 29日に日中国交正常化50年を迎えるのに合わせ、横浜市在住の写真家千島寛さん(66)が、写真集「中国残留婦人―家族―」(神奈川新聞社)を出版した。戦争や政治に翻弄(ほんろう)され、祖国を離れた異国の地で苦難を強いられた広島市出身の林薫さんたち女性4人の半生を追った。(桑島美帆)

 林さんのほかは新潟出身の2人と宮崎出身の1人で、いずれも故人。開拓団や夫の転勤に伴い旧満州(中国東北部)へ渡り、終戦後の混乱の中で、現地にとどまらざるを得なかった「中国残留婦人」と呼ばれる人たちだ。千島さんが1995年から22回現地へ赴き、一人一人に晩年まで寄り添いながら写真を撮りためた。

 中でも林さんにまつわる写真が34点と最も多い。取材活動の拠点にしたという黒竜江省チチハル市内の林さんの自宅や、林さんが一時帰国中に広島県内で撮影した。

 現在の南区的場町出身の林さんは、19歳だった39年に南満州鉄道(満鉄)に勤務していた夫と結婚し、中国へ渡った。終戦前に2人の子を出産したものの、いずれも栄養失調で失ったことから、心身を病んでしまう。このことがその後の運命を決めることになる。

 林さんが入院中に日本へ戻る手段は途絶え、旧ソ連軍によりシベリアへ抑留された夫とは生き別れになった。住み込みで働きながら、中国人男性と再婚。新たな家庭を築いたが子どもには恵まれず、知人の娘を引き取って育てた。

 写真集では「戦争は嫌ですよね。私たちみたいなのが出てきちゃいますからね」とつぶやいた時の林さんの表情や、幼い頃に遊んだ猿猴川をじっと眺める後ろ姿を捉えたカットを掲載する。

 実は林さんは93~97年の一時期、広島県熊野町の町営住宅で暮らしたことがある。70歳を過ぎ、ついのすみかを祖国に求めたのだろう。町内で暮らすめいの藤田信江さん(86)を頼って帰国したのだ。中国の家族を呼び寄せようとしたが血縁関係がないことから制度上かなわず、結局中国へ戻り、2007年12月、87年の生涯を閉じた。

 林さんは一時帰国中、熊野町の広報誌の取材を受けている。藤田さんが保管してきた録音テープには、敗戦後、日本人女性が次々にソ連兵に暴行された様子や、生き抜くために中国人と結婚せざるを得なかった苦悩を打ち明け、「私たちは好きで残ったんではないんです」と涙ぐむ肉声もある。

 千島さんは「林さんたちの思いを自分の記憶だけにとどめておくわけにはいかなかった。戦争がいかに個人の人生を狂わすかということを伝えたい」と力を込める。林さんの遺骨は「中国に残さず日本に埋めてほしい」という遺言をもとに、藤田さんが引き取り、広島県北広島町の墓地に埋葬されているという。

(2022年9月29日朝刊掲載)

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