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連載・特集

変わる都市像 呉市制120年 <3> 災害

斜面多く甚大被害度々

記憶風化防ぐ伝承に力

 6月に100歳を迎えた呉市東中央の石原ユキヱさんは、77年前の出来事が忘れられない。「呉の街は焼夷(しょうい)弾で火の海になって、戦争がようやく終わったと思ったら、今度はすさまじい雨風にさらされた。思い出すと今でも恐ろしい」

 昭和の三大台風に数えられる枕崎台風が呉を襲ったのは、太平洋戦争の終戦から約1カ月後。戦争末期の度重なる空襲で市街地は焼け野原になり、粗末な仮住まいに身を寄せる市民もいた時期だった。

土砂崩れや氾濫

 1945年9月17日、九州南西部から上陸していた台風は強い勢力のまま広島県に接近。県の報告書「呉市の水害について」(51年)によると、市内の16日午後10時から24時間の雨量は221・8ミリに達した。1日当たりの雨量では、呉測候所が開設された1894年から現在までの記録で最も多い。

 土石流や土砂崩れがあちこちで起き、二河川など市内の川の多くが氾濫した。「ごうごうと音を立てて流れる泥水にそこら中が覆われた」と石原さん。家屋1162戸が流され、死者は県内犠牲者の半数を超える1154人に上った。報告書は、明治期の呉鎮守府開庁以降、急激な人口増に対応するため急傾斜地を切り開いて家屋が建てられていったことや、終戦直後で気象予報の伝達態勢が整っていなかったことが、被害を大きくした原因と分析している。

芸予地震で死者

 枕崎台風の後、1967年の「昭和42年7月豪雨」、99年の「6・29豪雨」でも大きな被害の出た呉。旧市街をはじめ平地には乏しく、斜面に広がる住宅地での土砂災害などが繰り返されてきた。震災でも、市制施行から3年の05年に安芸灘を震源とする芸予地震で6人が亡くなり、2001年の芸予地震でも県内唯一となる死者1人が出ている。

 近年では18年7月の西日本豪雨で、災害関連死を含め県内最多となる30人が亡くなった。豪雨から4年を迎えた本年度、市は住民と協力し、災害の記憶の風化を防ぐための活動に力を入れている。被災地約20カ所に、当時の状況や被害の規模などを伝える説明板を設置する計画だ。

 被害の大きかった安浦町の市原、中畑、下垣内地区では、一時避難所に決めた野路西小跡の「いなし広場」を災害伝承の場に活用していく。中畑自治会の小林一司自治会長(71)は「豪雨では以前被害にあった場所でまた土石流が起きた。説明板などで現場に歴史を刻み付け、防災学習や早期避難の意識付けにつなげる」と話す。(仁科裕成)

(2022年9月29日朝刊掲載)

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