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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅳ <9> 民衆の高揚 新聞の論調 好戦論に転じる

 明治27(1894)年6月10日の新聞「中國」(中国新聞の前身)は、続々と広島入りする陸軍幹部の動静を伝えている。山陽鉄道広島停車場は召集兵や見送り人であふれ、宇品港には兵士を運ぶ船が集結。広島の街は異様な興奮に包まれる。

 当時5歳だった元中国新聞記者の佐伯嘉一は「広島財界太平記」(1956年)に思い出を記している。

 市中心部の猿楽町に佐伯の家はあり、後に作家になる年長の鈴木三重吉宅で3畳大の旭日旗を作った。大島義昌混成第九旅団長が出発の日、竹さおの先に旗を掲げて近所の子ども数十人と官舎前へ。喉が張り裂けそうな大声で万歳を連呼して旅団長の乗馬での門出を祝った。

 旅団の第1次輸送隊が出航後の6月12日、軍作業員3千人の募集が始まる。13日の「中國」は朝鮮情勢の社説で「日清双方が天津条約により兵を撤去するや善し」と平和的解決に望みをつなぐ。まだ冷静である。

 ところが24日には「容易に我が兵を撤去すべからず」、27日には「政府はあくまで強硬主義で臨め」と好戦論に転じた。清との交渉が決裂して第2次輸送隊が24日に宇品を出港した。開戦に向けて急速に高ぶる国民感情に呼応している。

 広島県でも佐伯郡の個人が軍費500円、安芸郡宮原村有志は軍用わらじを献納した。旧広島藩士や国学者たちが抜刀隊や義勇隊を組織しての従軍を県庁に志願した。

 「清国討つべし」との従軍志望は全国で相次ぎ、内務省が7月3日に「志はよいが、政府で準備する」と通達して沈静化を図るほどだった。

 同月5日の「中國」社説は、「朝鮮の独立を妨げるのであれば、我は兵力をもって清国を傲岸(ごうがん)な夢から覚ますのみ。それは我が国力の試金石」と読者を鼓舞する論調だった。

 出兵基地の広島で、民衆と新聞が響き合ってナショナリズムを高揚させていく構図が見て取れる。

 清軍が朝鮮へ増派との情報が入り、7月19日に政府と大本営は対清開戦を決定した。同月25日、朝鮮の豊島沖で海戦が始まり、日本優勢のうちに終わる。陸でも同じ日、混成第九旅団の歩兵3千を率いた大島旅団長が清軍駐留の牙山(アサン)に向けて進軍を始めた。(山城滋)

混成第九旅団
 第五師団の歩兵第十一、二十一連隊を中心に騎兵、砲兵、工兵、輜重(しちょう)兵など約8千で構成。第1次輸送隊は6月16日までに、第2次輸送隊は28日に仁川(インチョン)に到着した。

(2022年9月30日朝刊掲載)

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