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連載・特集

変わる都市像 呉市制120年 <4> スポーツ

プロや五輪選手を輩出

市の拠点 各機能分散へ

 呉市郷原町の山あいに、ボールを蹴る音と小学生の歓声がこだました。8月、市総合スポーツセンター「ミツトヨスポーツパーク郷原」であったJ1サンフレッチェ広島の元選手によるサッカー講習会。1990年代にサンフレが練習拠点とした縁もあり、毎年のように開かれてきた。

 日本代表の森保一監督(54)も現役時代、ここで汗を流した。ただ、市はセンター全体を産業団地にする計画で、来年中にも売却する方針を示している。講習会で講師の一人を務めた森崎和幸さん(41)は「施設がなくなるのは寂しいが、呉の皆さんとのいい関係を続け、サッカー文化を根付かせたい」と話した。

「野球市」の異名

 呉には長らく、プロスポーツを身近に感じられる環境があった。市出身の鶴岡一人が監督を務めた南海ホークス(現ソフトバンク)は50~80年代、一時期を除いて二河球場でキャンプ。街中には南海の緑色の野球帽をかぶる少年の姿も見られた。高校時代、球場スタッフを務めた市内の「なべタクシー」社長岩沖卓雄さん(74)は「選手からお古のユニホームなどをもらった。球場で出されたサンドイッチやスープがおいしかったな」と懐かしむ。

 野球は、戦前から呉海軍工廠(こうしょう)の工員の体力強化を目的に奨励されていた。34年に呉港中(現呉港高)が夏の甲子園を制するなど活況で、呉は「野球市」とも呼ばれた。鶴岡のほか、初代ミスタータイガースの藤村富美男や、巨人で活躍した広岡達朗さん(90)を輩出した。

工廠由来で盛ん

 海軍工廠の存在から盛んになった競技は少なくない。「日本三大駅伝」といわれた31年の第1回中国駅伝で、工廠の選手で構成した呉オリンピアが優勝。32年には水雷製造に携わる工員のバレーボールチーム、呉水雷クラブが全日本排球選手権を制した。戦後、工廠跡を引き継いだ日新製鋼呉製鉄所(現日本製鉄瀬戸内製鉄所呉地区)の従業員も、ソフトボールなどで全国水準の成績を上げた。

 72年のミュンヘン五輪男子マラソンには、市出身で高校教諭だった采谷(うねたに)義秋さん(77)が出場。円盤投げ選手として活躍した元高校教諭で、市陸上競技協会理事長の原野みど里さん(62)は「教壇に立つことと五輪を目指すことは両立できるんだと憧れた」と振り返る。

 若者に夢を与え、街の活気を生むスポーツの振興は、市にとって重要施策の一つ。総合スポーツセンターの各機能は市内に分散移転する考えで、市民が運動に親しみやすい環境を整えることが求められる。(上木崇達)

(2022年9月30日朝刊掲載)

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