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シベリア抑留の辛苦 切々 広島の末広さん講演 峠三吉と出会い前向きに

 日中戦争のさなか、「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇隊」として旧満州(中国東北部)に渡り、シベリア抑留も体験した印刷会社会長末広一郎さん(97)=広島市安芸区=が中区で講演した。極寒、飢え、重労働の「三重苦」にとどまらぬ抑留の辛苦を語り、人権を踏みにじった軍の存在を批判。「同じことを二度と繰り返してはいけない」と強調した。

 現在の広島県世羅町に生まれた末広さんは、家族を貧しさから救おうと14歳の時、義勇隊に志願。ラッパ鼓隊員となって満州へ渡るも、肺に水がたまり療養中に敗戦を迎える。

 旧ソ連の参戦、民を守らぬ旧関東軍、現地の人からの報復―。「語り尽くせぬ地獄を見た」という。末広さんを追うように満州へ渡った弟は、現地の人が放った火で命を落とした。

 戦後、末広さんはシベリアに送られ、タイシェト(現イルクーツク州)の収容所へ。森林伐採と鉄道建設に従事させられた。「木を切るより運ぶのが重労働だった」。事故も多く、末広さんのすねには、おのによる傷が今も残る。

 重労働に増して末広さんが「許せない」と振り返ったのが旧日本軍だ。当初ソ連は旧軍組織を温存して作業に当たらせたため、収容所にはその秩序が持ち込まれ、元上官は下級兵に暴力を振るい、食糧をかすめ取った。その後ソ連による「民主化」で立場は逆転するも、末広さんは軍隊という存在に「やりきれない思いがある」と話す。

 帰還できたのは4年後。労苦は続く。結核だった末広さんは国立広島療養所(現東広島市)に入院。「シベリア帰り」と差別され、肺の病で職も見つからない。自暴自棄になっていた時、出会ったのが峠三吉(1917~53年)だった。峠は「技術があれば食べていける。君は字がうまいからガリ版きりをやっては」と末広さんを励ましたそうだ。末広さんはガリ版きりを覚え、退院後は印刷所に勤務。その後独立して今の会社に発展させた。峠の「原爆詩集」や詩誌「われらの詩(うた)」の印刷にも携わった。

 以来、印刷の仕事を通じ戦争が生む不条理を記録し伝えてきた。現在も冊子「満蒙開拓平和通信」の編集・発行を続ける。

 末広さんは、日本に帰れないノモンハン事件(39年)の捕虜とシベリアで出会った経験や、厚生労働省が進める遺骨収集事業のずさんさに触れ「(戦争は)終わっていない」と訴えた。ウクライナへ侵攻を続けるロシアに対しては「かつて日本が満州にしたのと同じ。戦争をする人間は許せない」と語気を強めた。

 講演はNPO法人ワールド・フレンドシップ・センター(西区)が主催。約50人が耳を傾けた。(森田裕美)

(2022年10月3日朝刊掲載)

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