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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅳ <10> ラッパ手の死 修身教科書で忠君愛国の鑑

 車の離合が難しい道を成羽川沿いにたどる。高梁市成羽町新山の急傾斜地に木口小平(きぐちこへい)は生まれ、近くの小泉鉱山で働いた。20歳になった明治25(1892)年、徴兵検査に合格して広島の第五師団歩兵第二十一連隊に入りラッパ手となる。

 4歳年長の白神源次郎は倉敷市船穂町水江の出身で、高梁川を行き交う高瀬舟で物資を運んだ。やはり同連隊のラッパ手になり、除隊後に朝鮮派兵のため予備役召集された。

 明治27年(94)年6月下旬、2人を含む混成第九旅団の後発隊は宇品から朝鮮に渡る。日本軍は7月23日、朝鮮政府に清軍攻撃を依頼させようとして粗暴な挙に出た。王宮を占領して国王を拘束。国王実父の大院君のかいらい政権を樹立した。

 日本軍は同月25日に牙山(アサン)に向けて南進。途中の成歓(ソンファン)で同月29日未明、増水した川を渡る作戦中に清軍の射撃で兵士多数が死傷した。この戦いで、進軍ラッパを吹きながら敵弾に倒れても口から離さなかったという兵士の美談が報道された。

 普通に考えれば被弾の衝撃で口からラッパは離れる。暗夜に誰が確認したかも定かでない。しかし、白神がラッパ手とされ一躍、国民的英雄となる。劇的最期をたたえる歌が愛唱され、教科書にも載った。

 ところが第五師団は1年後、ラッパ手は木口だったと訂正した。白神は溺死したらしく、木口は左胸銃弾貫通死だった。「キグチコヘイハ(略) シンデモラッパヲ クチカラハナシマセンデシタ」。小学修身教科書で木口は忠君愛国の鑑(かがみ)となる。

 取り違え公表で、岡山県内の双方の生地に困惑や驚きが広がった。白神人気はすぐには衰えず、地元有志は明治29(96)年、高梁川沿いの高台へ白神の記念碑を建てた。

 木口の碑は大正3(1914)年、成羽町の丘に建てられた。没後120年の2014年、地元住民が最後の追悼式を営んだ。

 本当は誰があのラッパ手で、美談はどこまで信じられるのか。さまざまな臆測に決め手はない。

 国民皆兵による初の対外戦争で、広く国民の愛国心を高めたラッパ手の物語。異郷で戦死した勇士がまぎれもない庶民兵であることが重要だったのである。(山城滋)

歩兵第二十一連隊
 明治31年に浜田へ転営。昭和7年、右手でラッパを構える木口小平の銅像が営庭に建てられた。第2次大戦中に供出後、昭和36年に再建され、現在は浜田護国神社境内にある。

(2022年10月1日朝刊掲載)

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