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連載・特集

変わる都市像 呉市制120年 <5> 基地の街

歴史踏まえ「共存共栄」

海自の任務 多様化進む

 呉市上長迫町の旧呉海軍墓地(長迫公園)で9月23日、呉鎮守府ゆかりの戦没者を慰霊する合同追悼式が開かれた。今年で52回を数える。遺族や自衛隊関係者が参列する中、地元の児童代表が追悼の辞を述べた。「二度と戦争によって苦しむ人を出してはいけない」。かつて「東洋一の軍港」と呼ばれ、今は海上自衛隊の「基地の街」である呉を象徴する光景だ。

 敗戦後の海軍解体を経て、1954年、自衛隊法が施行。掃海業務を担っていた保安庁警備隊呉地方基地隊を引き継いで海自呉地方隊が発足した。元海自隊員たちでつくる呉水交会の常務幹事で、57年に呉教育隊へ配属された宮川秀清さん(86)は当時を思い出す。「私服は実家に送り返され、街を歩くときはいつも制服。鉄砲を担いで市中行進もした。市民はみなさん優しくて、遅くまで飲み過ぎたら店内に寝かせてくれたもんよ」

縫製や飲食 需要

 厳しい目が寄せられた時代もあった自衛隊だが、呉ではおおむね肯定的に捉えられた存在だった。海軍への親近感が受け継がれたのに加え、船舶機器や縫製、飲食の需要といった経済面でも街を支える。呉海自協力会副会長の内野静男さん(76)は「食肉業を営んでいた時は一度に500キロの商品を納入した。経済効果は半端じゃない」と共存共栄を強調する。

 冷戦終結後の国際情勢によって、基地の性質は次第に変化した。湾岸戦争後の91年、自衛隊初の海外派遣となる掃海部隊がペルシャ湾に向けて呉などを出港。世論は割れ、無事を願って見送る隊員家族がいる一方で、「派兵反対」と声を上げる市民団体も集まった。当時、退官したばかりだった宮川さんは「派遣部隊は『犠牲者を出すわけにはいかない』と相当な覚悟だったはず。任務をやり遂げ、国際的な評価も高まった」と振り返る。

対テロで国外へ

 呉基地はその後、国連平和維持活動(PKO)や、米中枢同時テロ後の同盟国との対テロ活動でも艦船を国外に送り出した。国内外の被災地支援でも存在感を高めている。

 「基地の街」を巡って新たな動きもある。9月20日、安全保障上重要な施設の周辺や国境離島を対象とする「土地利用規制法」が全面施行された。呉基地周辺も対象になれば、国が土地の利用状況の調査や、妨害行為への中止勧告・命令をすることが可能になる。

 国が安全保障上の必要性を説く一方、恣意(しい)的な運用が市民の権利制限につながると懸念する声もある。鎮守府開庁を経て市制を敷いた呉の歩みは今も、国の防衛政策と無縁ではいられない。(上木崇達) =おわり

(2022年10月1日朝刊掲載)

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