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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅳ <12> 軍人天皇 挙国一致の象徴 増す存在感

 大本営の広島移設に伴い、明治天皇の御召し列車は明治27(1894)年9月15日夕刻、広島停車場に着いた。途中の沿線で正装した町村長や議員、吏員、学校生徒らが国旗を掲げて奉迎した。

 天皇の御座所兼寝室には、大本営が置かれた第五師団司令部2階の会議室が充てられた。日中の天皇は常に軍服姿で、世話する女人もいない。軍服裏地がすり切れたら侍従に継ぎを当てさせ、冬は火鉢に手をかざすだけの簡素な生活を7カ月余り送る。戦地の兵たちの辛苦に心を寄せる「軍人天皇」像が定着した。

 開戦当初は違った。同年8月1日の宣戦布告後、土方久元(ひじかたひさもと)宮内大臣が神宮や先帝陵に派遣する勅使の人選を相談したところ、天皇は拒絶した。「この戦争に自分はもとから不本意で、大臣らの要請でやむを得ず許した。先祖に報告したくない」と。

 土方の取りなしで天皇はやっと人選を裁可したが、開戦に懐疑的だった。十分相談せずに開戦へ向かう陸奥宗光外務大臣への不満を特に募らせた。敗れれば万世一系の皇統と国を危うくし、先祖へ申し訳が立たないとの危惧を抱いていたようだ。

 広島大本営での日常はしかし、天皇の内面に大きな影響を与えた。午前9時から軍議所で幕僚の報告や軍議に耳を傾け、出陣や帰還した将軍の拝謁を度々受けた。平壌の戦い、黄海海戦での勝利の知らせが入る。天皇は自ら軍歌を作詞して9月末、陸軍軍楽隊に演奏させた。

 戦時下の大元帥として存在感を増した天皇は、挙国一致のシンボルとなる。広島で開かれた臨時帝国議会は、大元帥陛下の下で戦争完遂を宣言する儀式のようでもあった。

 立憲政体下の天皇の力には限界があった。当初、開戦を避けたいと思っても、軍の支持を得た陸奥外相を抑えることはできなかった。一方で天皇は、元勲優遇の詔勅を与える形で維新功労者たちを身内サークルに招き入れた。

 日清戦争中も第一軍司令官を中途退任した山県有朋に2度目の詔勅が下る。元勲たちは首相指名などについて助言する役割を担った。大元帥の威厳を加えた天皇の下に、憲法に規定のないもう一つの統治の仕組みが定着していく。(山城滋)

元勲優遇
 首相辞任の黒田清隆、枢密院議長辞任の伊藤博文に明治22年、首相辞任の山県有朋に同24年、同じく松方正義に同31年に詔勅を与えた。後に井上馨、西郷従道、大山巌を加えた元老会議が形成された。

(2022年10月5日朝刊掲載)

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