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社説・コラム

『潮流』 かの地の広島弁

■報道センター社会担当部長 城戸収

 「戦後、専売公社(現日本たばこ産業)の前で喫茶店をやっとったんです」。平壌で出会った女性は、そう懐かしんだ。現地で聞いた広島弁は、筆者にとって訳もなくうれしかった。その境遇を思い、何とも言えない気持ちにもなった。

 2002年6月、北朝鮮に住む被爆者の調査団に同行した。彼女は証言に応じた一人。当時70歳だった。現在の広島市南区宇品御幸で被爆し、1972年に帰国したという。彼女を含め、広島、長崎の被爆者14人を取材した。

 国交がないため日本政府の援護策から置き去りにされた在朝被爆者。「自分らが死ぬのを待っている」「強制連行されて被爆したのに何もしてくれない」。厳しい言葉も浴びた。

 小泉純一郎元首相の電撃訪朝は、その約3カ月後だった。北朝鮮に日本人拉致を認めさせ、5人を帰国させた。「山が動いた」。調査団の中心だった広島県朝鮮人被爆者協議会会長の李実根(リ・シルグン)さんの高揚した表情が忘れられない。長年、同胞の救済に尽くしてきた。首相訪朝が援護につながると期待した。

 それから20年。拉致問題は進展していない。被害者は高齢化し、帰国を待ちわびた家族の訃報が相次ぐ。在朝被爆者にも無情な時が流れた。支援が届かぬ中、どれだけの人が亡くなったのか。現地の被爆者協会が調査しているが、全容は把握できていないようだ。李さんも、おととし鬼籍に入った。

 北朝鮮はおととい、日本上空を通過する弾道ミサイルを発射した。近く核実験に踏み切るとの見方もある。緊迫する情勢に、問題解決の糸口さえ見いだせない状況はまだ続くのか。拉致被害者と同じく、国家に翻弄(ほんろう)された在朝被爆者を救済する時間は残されていない。かの地に広島弁を話す被爆者がいることを忘れてはならない。

(2022年10月6日朝刊掲載)

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