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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅳ <13> 三国干渉 「臥薪嘗胆」戦争国家の道へ

 日清戦争中、兵士の葬儀記事が度々新聞に載った。明治27(1894)年10月24日の「中國」(中国新聞の前身)は、平壌の戦いで「忠死を遂げた」広島県沼田郡安村字高取出身の兵士の葬儀に村長、村吏、議員、小学生ら七、八百人が参列したと伝えている。

 郷土兵を悼みながら村人は近代初の対外戦争に「参加」し、「国民」の自覚を持った。連戦連勝に国中が沸き返るさなかに終戦となる。外務大臣の陸奥宗光が恐れたのは高揚した国民の愛国心の行方だった。

 清の領土に触手を伸ばそうとすくみ合う西洋列強をよそに、日本国内は戦勝に酔いしれていた。講和条件として陸軍は占領中の遼東半島、海軍は未占領の台湾の割譲を主張する。対外強硬派や言論人は、さらに過大な領土要求をぶち上げた。

 陸奥や伊藤博文首相はロシアが必ず干渉してくると予測したが、軍の言うがままの講和条件を清の全権李鴻章に認めさせた。「軍人の鮮血を注いで略取した遼東半島割譲の条項を入れなければ、一般国民を失望させるだけでは済まない」と陸奥は「蹇蹇(けんけん)録」に記す。

 明治28(95)年4月17日、下関で日清の講和条約が調印された。李が漏らした情報によりロシアは6日後、フランスとドイツを誘って遼東半島を清へ返還するよう日本政府に勧告した。武力を背景にした三国干渉に日本はなすすべがなかった。

 遼東半島の還付は5月10日付の天皇による詔書で国民に知らされた。同月18日の新聞「中國」の社説は、「内外察せられて御辛労深かりし」と詔書への感銘を表し、「聖意に悲しむものなり」と締めくくった。国中がぼうぜん自失の状態だった。

 一方で日本は講和後、割譲された台湾で住民との激戦を制して植民地帝国となる。清は日本へ償金など3億5600万円を支払うのに列強からの借款供与に頼った。見返りに租借地や鉄道敷設権などの権益を次々に与え、中国分割の画期となる。

 挙国一致体制をもたらした戦時ナショナリズムとしての愛国心は三国干渉後、屈辱を晴らすための「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」へと形を変えた。さらなる軍備拡張を経て、日本は戦争国家としての道を歩むことになる。(山城滋)

 日清戦争の犠牲者 日本陸軍の死亡者は1万3488人で、その9割弱がかっけ、赤痢、マラリアなどによる病死。軍作業員を加えると2万人以上との推計も。清側の戦死者は少なくとも3万人超とみられる。

(2022年10月6日朝刊掲載)

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