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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅳ <8> 撤兵困難 強硬論競う国内世論後押し

 明治27(1894)年6月5日、非常召集の号砲3発が夕闇の広島市内に鳴り響いた。第五師団に動員令が下り、旧広島城内に兵舎がある歩兵第十一、二十一連隊を中心に混成第九旅団の編成が始まった。

 ちょうど同じ日に山陽鉄道が広島まで開通した。鉄道と宇品港が整備されていたのが広島が出兵基地になった理由である。8月にはわずか17日間で広島停車場―宇品港間5・9キロの軍用鉄道が完成した。

 先発隊は6月9日に宇品を出港して12日に朝鮮の仁川(インチョン)に到着。同月中旬までに混成旅団の第1次輸送隊4千人が海を渡り、ソウルや近郊に駐屯した。農民反乱は既に沈静化していたが、ソウル南方80キロ余の牙山(アサン)に陣取る清の軍勢二千数百人との間で緊張が高まった。

 大部隊を送った以上、何らかの成果が必要となる。伊藤博文首相は6月13日の閣議で、日清両軍が農民軍を鎮圧後に日清共同での朝鮮内政改革に当たることを提案した。明治17(84)年の甲申(こうしん)事変で失われた日本の足場を朝鮮国内に築くことができれば成果には違いなかった。

 開戦を望む陸奥宗光外務大臣一人が態度を保留したが、閣議後に伊藤は駐日清公使と会談した。清公使は内乱鎮圧後の両軍の撤兵を強く主張し、伊藤も撤兵の線で折り合った。この合意が保たれれば、日清戦争は起きなかったはずである。

 ところが、翌々日の15日の閣議で陸奥が追加提案をした。日本軍は撤兵しないで朝鮮内政改革の協議を清と行う、清が不同意でも日本単独で内政改革を進める―の2項目。清との交渉決裂は目に見えていたが、伊藤は陸奥案を容認した。

 開戦に道を開く方針変更を後押ししたのは国内世論だった。福沢諭吉主宰の時事新報は6月5日の「速やかに出兵すべし」から対清強硬論の社説を連発し、19日に「容易に撤兵すべからず」を掲載。他紙も追随し、避戦を唱えるのは政府寄りの東京日日新聞ぐらいだった。

 総選挙を控えた各党は、居留民保護が名目だったはずの出兵が、朝鮮を清の干渉から解き放つことができるかを注視していた。強硬論を競い合うような展開に、伊藤も後に引けなくなったのである。(山城滋)

 朝鮮の農民反乱 民衆宗教・東学の農民信徒が1894年2月、全羅道で蜂起し5月末に全州が陥落、朝鮮政府は清に援軍要請。日清派兵を受け反乱は収束した。日本へのコメ流出、重税政策への不満も背景にあった。

(2022年9月29日朝刊掲載)

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