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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅳ <15> 外交敗戦 朝鮮国内の反日感情高まる

 広島地裁の予審判事は明治29(1896)年1月20日、前朝鮮公使三浦梧楼(ごろう)たちの閔妃(ミンピ)謀殺容疑を「証拠不十分」とし48人が免訴となる。

 翌日の新聞「中國」(中国新聞の前身)は1面で「青天白日の身となりたり三浦子(子爵)以下諸氏万歳」と報じた。競合紙「芸備日日新聞」は翌々日、「公明正大な判決で大いに喜ぶべきだ」と論評した。

 国際的に指弾される犯罪者ではなく、朝鮮から親ロシア派を追放した英雄扱いだった。三浦は万歳の声に包まれ凱旋(がいせん)将軍さながら帰京した。

 判決文によれば、三浦は壮士と呼ばれる民間日本人を集めた邦字新聞社長に王妃殺害を教唆し、軍人に支援を命令。実行指導者の岡本柳之助は「狐(きつね)は臨機処分すべし」と号令し、壮士一同が王宮の奥まで行き着いたと事実認定している。免訴は政治の力が働いた結果だろう。

 朝鮮では、親日開化派の金弘集内閣が王妃殺害容疑で自国民3人を処刑し、もみ消し工作への不信感が高まった。同年2月11日、親ロシア派が国王の高宗をひそかにロシア公使館に移すクーデターに踏み切る。罪人と断じられた金総理は路上で群衆に囲まれて殺害された。

 日清戦争で勝ち取ったはずの朝鮮の支配権は水泡に帰したも同然だった。2月25日の衆議院で対外強硬派が内閣弾劾上奏案を提案する。改進党系で岡山県選出の竹内正志は「軍は立派でも対韓政策は大失敗。外交無策の現内閣が続くなら、軍備拡張しても無駄だ」とこき下ろした。

 弾劾上奏案は否決されたが、外交敗戦は明らかだった。戦勝の成果として朝鮮に内政改革を迫っても、朝鮮国内の反日感情は高まるばかり。戦中の蜂起農民の殺りくに続く閔妃暗殺が、それを決定的にした。

 三浦免訴時の日本国内の反応との落差は大きい。政府もメディアも自国中心の愛国主義に流されていた。その先は対外戦争の連続となる。

 広島市中心部と宇品港を結ぶ沿道に明治29年、日清戦争凱旋碑が建てられた。敗戦後の昭和22(1947)年、進駐軍への配慮から「凱旋碑」の文字が「平和塔」に変えられた。塔頂の雄々しい猛禽(もうきん)の彫刻は、「平和」と呼べなかった時代の象徴のようでもある。(山城滋) =見果てぬ民主Ⅳおわり

その後の朝鮮
 1896年2月13日、親ロシア派内閣成立。97年2月、国王高宗がロシア公使館から慶運宮に還宮。10月、皇帝即位式を挙行し国号を大韓帝国とする。11月、明成皇后(閔妃)の国葬を行う。

(2022年10月8日朝刊掲載)

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