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[ヒロシマの空白 証しを残す] 焼け跡写した97歳 今語る 被爆4ヵ月後 尾道の平原さん13枚保管

フィルム イモと交換で入手

 20歳のときに被爆4カ月後の広島市内の惨状を写真に収め、今年97歳になった原爆写真の撮影者がいる。撮影当時、中国配電(現中国電力)の社員だった平原伝(つたえ)さん=尾道市。「フィルムはサツマイモと交換して何とか手に入れました」。被爆直後の広島の撮影者で健在な人はわずかになる中、物資不足の中での撮影のいきさつや胸の内を取材に証言した。(編集委員・水川恭輔)

 平原さんは1945年12月11日に撮った13枚の写真のプリントを自宅で保管している。爆心地から約700メートルで内部が焼失した小町(現中区)の中国配電本店をはじめとする同社施設や周辺の被害、繁華街の焼け跡などを収めている。

 「焼け跡に人影はほとんどなく、残っている建物もわずか。シャッターを切りながら、つくづく『ひどいもんじゃなあ』と思いました」。自宅で一枚一枚を見つめ、記憶を手繰った。

 平原さんは25年、現在の尾道市栗原町の農家に生まれた。40年に中国配電の前身の広島電気に就職し、若手が研修を受ける本店の技術員養成所に入所。本店に近い広島市大手町(同)の寮に入り、10代後半の2年を過ごした。

壊滅と聞き衝撃

 「大都会じゃった」と振り返る広島市。繁華街だった八丁堀(同)周辺で映画を見たり楽器店を訪ねたりした。17歳ごろにカメラを買い、寮で仲間を撮った。

 その後、中国配電尾道営業所で働いていた時、軍に召集され、45年春に松江市の航空部隊で教育を受けた後に九州へ配属。8月15日の終戦に伴い松江市の部隊に戻る際、広島の壊滅を聞いて衝撃を受けた。「列車の中で広島市にいた女性に街の状況を聞くと丸焼けじゃと言い、中国配電のことを聞くと、何と『ないでしょう』と」

 8月18日に帰郷し、尾道営業所に復帰した。広島市の状況が気になり撮影を思い立ったが、物資不足でフィルムの入手は困難。営業所の関係者に持っている人がいると知り、サツマイモと交換してもらった。「親が農家だったのでイモをどっさり持って行きました。当時は食糧難でイモも貴重でねえ」と回顧する。

 撮影に訪れた広島市では被爆前に寮があった今の中電病院辺りの焼け跡にも入り、壁が破壊されて鉄骨がむき出しの中国配電大手町変電所などを撮った。同社の原爆犠牲者は274人に上った。被爆前をよく知る八丁堀周辺の壊滅状況も撮影。焼けた自転車や溶けた酒瓶といった生活品の残骸が目に焼き付いている。

惨禍伝承に期待

 今もプリントを手元に残す一方、ネガフィルムは85年に原爆資料館(中区)に寄贈した。これまで撮影者としてあまり知られてこなかったが、「今も撮った本人に当時の状況を聞くことができる非常に貴重な写真だ」と同館。ホームページのデータベースで13枚を公開している。

 ロシアのウクライナ侵攻で核兵器使用の懸念が高まる中、平原さんは原爆写真の活用で被爆の惨禍がより多くの人に伝わるように願う。「私の写真は広島はどうなっているのだろうという個人的関心で撮ったまでのものですが、役に立つならば感激です。とにかく、戦争は嫌です」

広島の原爆写真の撮影者

 本紙は2007年、1945年末までに日本側が撮った被爆後の広島の写真の全容を調べ、その時点で判明した57人の撮影者(平原伝さんを含む)をリストで報じた。さらに昨年、07年以降の原爆資料館への寄贈資料を調べ、ほかに4人と1調査班が撮っていたことを確認した。平原さんや、原子雲を撮った94歳の山田精三さんのように健在な人もいるが、ほとんどの人は亡くなっている。

(2022年10月8日朝刊掲載)

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