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連載・特集

ホロコーストの歴史 刻む ベルリンの碑を訪ねて

 ベルリンには、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の記憶を伝える数々の慰霊碑や記念碑がある。いずれも、自国の負の歴史に正面から向き合おうと、市民たちが声を上げて築かれた。9月上旬に現地を訪ね、「碑巡り」をした。(湯浅梨奈)

 人や車が行き交う街中に、灰色の石碑が並ぶ。サッカー場三つ分の広さに2711基。曇天の空の色と重なり、心が重くなる。①「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」は、約600万人とされるユダヤ人犠牲者の墓標を象徴する。連邦議会の決議を経て、第2次世界大戦の終結とユダヤ人強制収容所の解放から60周年だった2005年に完成した。

 石碑の間の狭い隙間を歩くと、地面が波打つようにうねっていた。出口にたどり着けるか、と不安に駆られる。地元のアントネラ・ハンセンさん(40)は「ユダヤ人の迫害を追体験する気持ちになる」と語った。

 200メートル先には、1989年の「ベルリンの壁」崩壊と東西ドイツ統一を象徴するブランデンブルク門が立つ。足元の石畳に10センチ四方の②「つまずきの石」が敷かれている。「ここに住んでいた マーサ・リバーマン 1943年3月10日 強制送還前に自殺」と刻む。「名前が忘れられた時に、存在が忘れられる」。そう考えたベルリン出身の一人の芸術家が作った。

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 ナチスが虐殺したのはユダヤ人だけではなかった。③「『安楽死』殺害犠牲者のための追悼と情報の地」は障害者の犠牲を伝える。説明板にある写真の一人は、知的障害者のアンナ・レーンケリングさん=当時(24)。不妊手術を強制された末、収容所のガス室で殺された。

 近くの公園に足を延ばすと、モダンな建造物が見えてきた。④「同性愛者のための追悼記念碑」。壁穴から中をのぞくと、同性愛者がくちづけをする映像が流れている。ドイツでは94年まで男性の同性愛が違法だった。碑は2008年に完成したが、瓶が投げ込まれるなどの被害が今も絶えないという。

 さらに、「人種的に劣った集団」と迫害された民族の名を刻む円形の池まで歩を進めた。⑤「虐殺されたシンティとロマのための記念碑」である。

 ナチスは「優生思想」に基づき、「社会の役に立たない」人たちを抹殺したのだった。現在の日本でも、知的障害者に対する無差別殺傷事件や、性的少数者を巡る政治家の差別発言が問題となっている。根底にある偏見と差別は、私たちの足元にも常にある。

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 1933年1月にアドルフ・ヒトラーが首相に任命され政権を掌握し、ワイマール共和国は消滅した。その翌月、国会議事堂放火事件が起きた。ヒトラーは共産党員の犯行だと仕立てて弾圧。直後に全権委任法を成立させ、独裁体制を確立した。連邦議会議事堂のそばには⑥「殺害された帝国議会議員追悼の碑」があり、拷問などで命を奪われた議員の名前を刻んだ鉄の板が並ぶ。

 続いて東へ1キロ。ベルリン国立歌劇場前の地面に設けられたガラス窓から、空の本棚が見えた。⑦「空っぽの図書館(焚書(ふんしょ)追悼記念碑)」だ。この場所で、ユダヤ人作家たちによる約2万冊がドイツの学生たちの手で燃やされた。

 街で知り合ったドイツ人大学講師は「迫害には市民も関わっていた」と強調していた。「間違っている」と声を上げることはなぜできなかったのか―。碑の数々は、自国の過ちを記憶し、次世代に伝えようと市民が模索を続けていることの証しでもある。一方で被爆地の私たちは、どれだけ自国の戦争加害の歴史と向き合ってきたか。思いを巡らせた。

(2022年10月17日朝刊掲載)

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