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社説・コラム

『潮流』 大川小の教訓

■論説主幹 宮崎智三

 東日本大震災の津波で多くの子どもたちの命が奪われたのは、学校をはじめ市教委側に過失があったからだ。そんな判決が確定し、今月で3年になった。現場となった宮城県石巻市の大川小の遺構を先週訪ねた。

 案内してくれたのは、津波で3年生の長女を失った只野英昭さん。無念さのにじむ説明が胸に響いた。

 あの日、子どもたちは地震後の約50分間、寒い校庭で待たされ、北上川脇の三角地帯に向けて避難を始めた直後、津波にのみ込まれた。

 裏山に足を延ばす。傾斜は緩く、子どもでも楽そうだ。なぜ、ここに登らなかったのだろう。あの日も「山さ逃げよう」と訴える児童がいた。そうしていれば、津波に巻き込まれることはなかったはずだ。

 市教委側は被害調査でも不信を招く。裏山に逃げようという児童の訴えを記録したメモを廃棄していた。

 そもそも災害への備え不足、避難時の判断ミス…。判決が市教委側に厳しいのは当然だとしか思えない。

 振り返ってみると、意外にも原爆被害と共通する点がある。原爆症や「黒い雨」被害の認定で、行政の厚い壁を打ち破ったのは司法だった。それでもなお、行政の腰が重い点も大川小と重なるかもしれない。

 判決が確定しても、市教委側の姿勢はさほど変わってはいない。校舎跡の横に昨年開館した大川震災伝承館が、その証しと言えよう。

 津波被害や訴訟に関する説明パネルはあるが、なぜ、子どもたちの命を守れなかったか。肝心の経緯は、さらっと触れている程度。都合の悪いことには、相変わらずふたをしようとしているようだ。反省には程遠く、再発防止にもつながるまい。

 もしあの場に自分がいたらと自問自答する教育関係者が個人で遺構に来ている。そう、只野さんは話す。わがこととして捉える人がわずかでも確かにいることに救いを感じた。

(2022年10月22日朝刊掲載)

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