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プロ化50年 広響ものがたり] 初代理事長の医師・高橋定さん 生みの親 奏で続けた情熱

愛用バイオリン 歩み伝える

 広響の生みの親はどのような人物だったのか―。広島交響楽団の初代理事長を務めた外科医師高橋定(さだむ)さん(1906~69年)の遺品が、広島市中区の遺族宅に保管されていた。愛用したバイオリンをはじめ貴重な品々からは、戦争の時代を経て燃やし続けた音楽への情熱が浮かび上がる。(西村文)

 遺品は、名工・菅沼源太郎が手がけた50年製のバイオリンのほか、聴診器、カメラ、旧陸軍時代の勲章、古いアルバムなど多岐にわたる。妻で内科医師だった温子(やすこ)さんが2000年に79歳で死去した後、養子の勇さん(54)が受け継いだ。

 「1歳のときに亡くなった養父のことはほとんど知らなかった」と勇さん。昨年、遺品を改めて見直し、東京在住の実母(定さんのめい)に話を聞くなどして、足跡をたどり始めた。

 定さんは呉市出身。現在は東京に本社がある研削・研磨の総合メーカー「クレトイシ」の創業家の長男に生まれた。少年時代、呉海兵団軍楽隊の演奏に魅了されたのが、音楽との出合いだった。「東京の音楽大に合格するも、父親に反対されたらしい」と勇さん。39年に日本医科大を卒業。陸軍軍医として南方戦線に赴き、福岡で終戦を迎えた。

 戦後、岡山県出身の温子さんと結婚。50年ごろ、広島市で建設途上だった百メートル道路(平和大通り)沿いに夫妻で「高橋病院」を開業した。55~56年には被爆女性25人の渡米治療に同行。大勢の被爆者から慕われたことを、遺品のアルバムは物語る。

 多忙な医師業の傍ら、アマチュア演奏家としても活躍した。51年の写真には、堂々とした構えで菅沼源太郎作の愛器を弾く姿が。広島放送交響楽団のステージと推測される。ここで知り合った音楽仲間と、63年に広響の前身となる広島市民交響楽団(市響)を結成することとなる。

 「平和都市・広島の地に文化の火を燃やし続けていこうと、市響は発足したのです」。定さんは当時の公演パンフレットに理事長として決意文を寄せている。「高橋君の意気込みはすごかった」「その情熱で(楽団運営の)難関を次々と突破した」と後に、音楽仲間は回顧している。

 69年夏、定さんは診察中に心臓発作で急逝。葬儀の写真には、市響のメンバーが悲痛な表情で、追悼曲を奏でる姿がみえる。

 寡黙で口下手だったと伝わる定さんは、回顧録の類いを残さなかった。「オーケストラを平和活動の中心にしたいと、情熱を注いだのだと思う」と勇さん。無言の遺品が、広響の礎となったその歩みを伝える。

(2022年10月22日朝刊掲載)

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