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呉の海軍工廠 若手の実習帳 スクリュー縮小図/溶接の技法 技術者育成 現場浮かぶ

 戦時中、呉市広地区で戦艦のスクリューや航空機を製造した広海軍工廠(こうしょう)の若手工員の実習帳1冊を、広島市東区の会社員坪本裕志さん(64)が保管している。父の故義男さんが10代の時に作成した。大和ミュージアム(呉市)は「工廠の教育プログラムを知る上で貴重な資料」としている。(東谷和平)

 実習帳は縦約18センチ、横約27センチ。軍艦のスクリューや歯車の縮小図を丁寧に書き取っており、溶接については技法などを図入りで詳細に記す。現場を見ながら仕組みを学んだ様子がうかがえる。三角関数の数式や円周に関する係数表も。表紙には1939(昭和14)年10月~40年3月の期間や「造機部組立工場」の所属、義男さんの名前が記されている。

 義男さんは、1937年に呉市の阿賀尋常高等小を卒業し、14歳で広工廠へ。19歳の時に見習いを卒業して約2年間働いた後、陸軍に入ったとみられる。坪本さんは実習帳のほか、船舶用機械や工場衛生などを扱った教本も保存している。

 大和ミュージアムの花岡拓郎学芸員は「熱力学や空気力学の記述もあり、高校レベルを超えている。当時の義男さんが理解するのは相当難しかったはず」と語る。実習帳が作成された時期は太平洋戦争の開戦が近づき、希少な金属などは禁輸措置を受けて生産現場は厳しい状況だった。技術者育成に力を入れた軍の姿勢が浮かぶ。

 教本などの資料は、終戦後に占領軍に押収されて情報漏えいするのを恐れた技術者が焼却するなどし、多くが失われた。個人宅に残っていても、後の世代が価値がないとみて処分するケースもあり、希少という。

 義男さんは戦後、国鉄(現JR)の電気設備関連の部署で働いた。「子ども時代の私にとって怖い父で、戦時中の話は聞けなかった」と坪本さん。85年に63歳で亡くなった父の遺品の中にこの資料があった。「『俺はこんなに勉強してたんだ、だからあなたも頑張れ』って言われている気がする」。実習帳は父からのエールと受け止めてきたという。

広海軍工廠
 呉市広地区で航空機などの開発・生産を手がけ、戦艦大和のスクリューも製造した軍需工場。1921年に呉海軍工廠広支廠として開庁し、航空機、造機、機関研究、会計の各部を設置した。23年に生産体制の拡充で広海軍工廠に。41年には航空機部が第11海軍航空廠として独立した。一帯は現在、工業地帯や米陸軍広弾薬庫などになっている。

(2022年10月22日朝刊掲載)

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