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捕虜の営み 息づく資料 第1次大戦中の似島俘虜収容所 ドイツ語通訳の記録 研究者「第一級」

 第1次世界大戦中のドイツ人捕虜たちが暮らした似島俘虜(ふりょ)収容所(現広島市南区)の様子を伝える新たな資料が見つかった。通訳男性が残した捕虜の名簿とノート、アルバムで、広島経済大の竹林栄治准教授(日独交流史)が1920年の収容所の閉鎖から1世紀を経て入手した。研究者は「捕虜の人物像や日本人との交流の様子が伝わる第一級の資料」と評価する。(衣川圭)

 当時、似島でドイツ語の通訳をした青木銑三郎(せんざぶろう)さんが記録、保管していた。軍都だった広島の歴史を追う竹林准教授が東京の古書店を介して手に入れた。青木さんは捕虜の研究者にも知られていない。甥の琇一さん(80)=東京=によると、名古屋にあった青木さんの生家は化学染料を扱っており、当時からドイツ人の出入りがあったという。「東京の外国語学校でドイツ語を学んだ伯父を、陸軍が通訳として呼び寄せたのではないか」と推測する。

 「検閲部用」と書かれた名簿には片仮名表記の545人の名前や所属部隊を記載。軍に入る前の職業欄には裁判官や造船技師、麦酒醸造人など多彩な職種が並ぶ。日本で初めてバウムクーヘンを焼いたカール・ユーハイムの職業欄には菓子製造業とある。

 表紙に「似島俘虜記事」とあるB5サイズのノートは、献立や懲罰の伝え方などのメモが残り、青木さんが雑記帳として使ったようだ。捕虜の解放日(19年12月25日)の前日に収容所長がしたとみられるあいさつ文も日本語とドイツ語で書いてあり、長い収容生活をねぎらう言葉も混じる。竹林准教授は「一等国の仲間入りを目指した日本が、国際条約を守って捕虜に対し丁寧に接した様子が分かる。情も移ったんでしょうね」とみる。

 2冊のアルバムには捕虜の肖像写真や収容所全景のほか、演劇部や声楽団の活動、収容中に亡くなった捕虜の葬送の様子などが収まる。帰国した捕虜からの手紙も1通添えられていた。解放日が付された宮島の写真には青木さんもドイツ人たちと並んで写り、信頼の厚さを物語る。

 徳島や大分など全国にあったドイツ人俘虜収容所に詳しい高知大の瀬戸武彦名誉教授は「収容所別の名簿は他に見たことがなく貴重。捕虜の番号ではなく名前のある人々が異国でどう暮らしたかを知る資料になる」と指摘する。竹林准教授は「似島の資料を生かし広島の歴史の空白部分を埋めたい」と意気込む。

似島俘虜収容所
 1917年2月19日に開設。ドイツ領だった中国・青島から日本に連れてこられたドイツ人捕虜たちのうち、大阪市の収容所の閉鎖に伴って約550人が似島に移った。20年4月1日に閉鎖。捕虜はサッカーを通じて広島高等師範学校(広島大の前身の一つ)と交流。19年3月には広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で「似島独逸(ドイツ)俘虜技術工芸品展覧会」があり、カール・ユーハイムはバウムクーヘンを出品した。

(2022年10月25日朝刊掲載)

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