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社説・コラム

中山士朗さんを悼む 原爆を生き残った者として 最期まで書き続けたヒロシマ

 「原子雲を故郷にもった漂泊者として、今日まで生きてきたのかもしれない」

 作家中山士朗さんが、日本エッセイスト・クラブ賞を受けた「原爆亭折ふし」(1993年刊)で、自身の半生を顧みた一節だ。生まれ育った地で14歳の夏に起こったことを、広島を離れても見つめ作品に結晶した。過酷な体験や、さまざまな形でよみがえる記憶。原爆を書くことを生きるよりどころにした。

 1945年8月6日、県立広島一中(現国泰寺高)3年生だった、中山さんは建物疎開作業に学徒動員され京橋川に架かる鶴見橋の西側で被爆した。爆心地から約1・5キロ。級友らと川に転げ落ち、何とか対岸の比治山へ逃げ、父母の懸命な看護で一命を取り留めた。「和夫」という名の少年に託して描いた短編集「死の影」(68年刊)から引く。

 鏡を見ると、「火口壁からあふれた溶岩流のように融解された肉が眼の端や首の付け根に凝固し/自己の内面で崩壊する音を聞いたように思った」。街に出ると、「『やあ、ケロイドだ。お化けだ』と囃したてる幼児の前から、和夫は負け犬のように逃げた」。そして、「人間の顔はすべてケロイドにおおわれてしまえばよい」と願い、身近な人々までも呪った。

 中山さんは、「戦後の解放感は私にはなかった。死ぬことばかり考えていた」と筆者の取材に応じて被爆65年の夏、鶴見橋を再訪した際も繕わずに語った。和夫が原爆調査のため学校へ現れた米兵と校長に呼ばれ、上半身裸の写真を撮られた屈辱も自身で味わった。

 一方で、中山少年は46年夏に出たガリ版刷り「泉―みたまの前に捧ぐる」に追悼文を寄せていた。同級生らが集めた広島初の原爆体験記集。実物は原爆資料館にもなかったが2008年、大分県別府市で暮らす中山さんが「ヒロシマの資料として残して」と贈ってきた。

 「死んでいった人たちは語れない。だから生かされている者として書き続けているのです」。早稲田大露文科を経て東京で会社勤めをしながら作家を志し歩んだのは、生きる目標をも手にしたいとの思いからだった。

 発表の場を同人誌に求めた6編を収めた短編集「死の影」は、後に名をはせる文学仲間らが称賛した半面、「原爆作家」のレッテルが付いて回った。商業誌には敬遠された。東京に呼び寄せた父母をみとり、作家活動も受け入れた妻に報い92年、温暖の別府へ移住。高台の自宅で亡き友や米国へ戻った親友らの息遣いをも書き継ぎ、98年に「私の広島地図」を刊行する。

 2010年代に入ると、広島で被爆したノンフィクション作家関千枝子さん(昨年に88歳で死去)と、「ヒロシマ往復書簡」3巻に続き「ヒロシマ対話随想」2巻を出す。病魔に襲われながら取り組んだ。電話をかけると「足が衰えて帰郷もままなりません」。明るい声が返ってきた。

 短編「死の影」は、著名な作家や歴史家が編んだ全集「戦争と文学」に選ばれ3年前には文庫にも入った。  被爆23年後の自著あとがきで「戦争とは無縁の世代の人たちに、私なりの力で/伝達しておきたいと思う。これが生き残った者の義務でもある」と記した。見事に最期まで貫いた。(元特別編集委員・西本雅実)

    ◇  中山士朗さんは12日、別府市で死去。91歳。

(2022年10月27日朝刊掲載)

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