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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 米国側の写真 <1> 壊滅の町

 1945年、広島市に原爆を投下した米国は街の破壊状況を調べる戦略爆撃調査団などを市内に送り込み、数多くの写真を撮った。軍事的な威力を調査するのが目的だったが、被爆地の視点で一枚一枚を検証すると、悲惨な被害や被爆前の街の痕跡、復興の歩みが見えてくる。米国側の写真を広島の資料や被爆者たちの証言から読み解く。

苦難の再建 戻れぬ人も

 広島市中区の原爆資料館は米戦略爆撃調査団が撮影した写真約千枚をホームページのデータベースで公開している。その1枚は45年10月31日、爆心地から1・2キロの広島東署(当時)の屋上から、今の中区橋本町などに当たる旧下柳町の焼け跡を見渡している。

 一面が焦土と化す中、右の一角に建つバラックが目を引く。同調査団の写真は当時としては鮮明で、目いっぱい拡大すると入り口に立てかけられた木の看板の文字が見える。一字一字をはっきり読むことまではできないが、資料館は「下柳町町内会」などと書かれていると推定してきた。

復興する町内会

 今回、記者が裏付け資料を捜したところ、本紙にあった。45年11月の朝刊連載「復興する町内会」で下柳町を紹介した初回(11月10日付)に掲載の写真。同じバラックをアップで写し、看板は確かに下柳町町内会事務所と読める。「あの直後広島では一番最初に事務所を開設」(同記事)。被爆後の町内会で再建が早い例として取材したようだ。

 ただ記事を読むと町の苦境が色濃く伝わってくる。「再起の準備を急いでゐるが、さて手をつけるとなると、どうすればよいのか途方にくれてゐます」(同町町内会の板谷翼会長)。繁華街の八丁堀(現中区)に近く、被爆前は351戸に1400人が住んでいたが、8月6日の原爆投下で壊滅し、取材時は20戸60人に激減していたという。

 早くから苦労してバラックを建てた人も9月の枕崎台風で振り出しに戻り、住宅確保が一番の悩みだと記事は伝える。焼け跡に残っていた町内会旗を事務所に掲げ、「家族を失ひすべてを散じたお互ひが励まし合って生きてゐる次第です」(板谷会長)という。

身の置き所なく

 一方で遠くに身を寄せるしかなかった人もいた。

 広島県北部の神石高原町の山あいにある相渡(あいど)地区。旧下柳町で母と2人で暮らしていた上田桂子さん(93)は原爆で母を失った後、この地区の親戚を頼り、今もこの地に住む。「原爆に遭って天地をひっくり返したような生活になりました」

 被爆前、母の伊勢村時子さんは同町で美容室を経営。近くに「東遊郭」として知られた一帯があり、芸妓(げいこ)たちがよく来店した。上田さんは3歳ごろから店の近くで日本舞踊を習い、「大人になったら踊りで身を立てようと思っていました」と振り返る。

 上田さんは当時16歳で広島女学院高等女学校4年。あの日は、動員先の軍需工場に向かう途中の広島駅近くで被爆した。幸い助かり、6日も店で仕事をしていた母を連日捜し歩いた。東練兵場(現東区)に逃げていたことは分かったが、現地で捜した時に姿はなく遺骨も見つからなかった。

 美容室兼自宅は跡形もなく、隣に住んでいた叔母たちも被爆死した。身の置き所がなかった9月、相渡地区で暮らす親戚方に身を寄せ、翌年にこの親戚の子どもと結婚した。慣れない農作業を必死にこなし、子ども4人を育て上げた。

 現在は孫が10人、ひ孫が9人おり、取材に「今が一番幸せ」とほほ笑んだ。ただ、古里下柳町の焼け跡の写真を見ると、笑顔は消えた。「こんなことは二度とあっちゃいけない。ロシアのウクライナ侵攻には、自分のあの頃を想像して涙が出そうになります」。穏やかな日々を過ごしながら平和を切に願っている。(編集委員・水川恭輔)

(2022年10月31日朝刊掲載)

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