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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 原田浩さん―人の体を踏んで逃げた

 
原田浩(はらだひろし)さん(83)=広島市安佐南区

資料館長として 市民と手を取り合う

 原爆資料館(広島市中区)の元館長、原田浩さん(83)は6歳(さい)のときに爆心地から約2キロの広島駅(広島市南区)で被爆しました。幼(おさな)かったあの日の体験は忘(わす)れられません。「二度と繰(く)り返されてはならない」との使命感で市の職員(しょくいん)として平和行政に力を注いできました。

 1945年当時、段原(だんばら)(現南区)で父徳治さんと母シズエさんと暮(く)らしていました。8月6日朝、現在の東広島市内に疎開(そかい)するため両親と広島駅にいました。ホームで徳治さんの体にもたれながら列車を待っていた時です。記憶(きおく)が途絶(とだ)え、気が付くと屋根の下敷(したじ)きになっていました。

 徳治さんが覆(おお)いかぶさってくれたため、大けがは免(まぬか)れました。がれきからはい出ましたが、シズエさんの姿(すがた)が見当たりません。周辺には炎(ほのお)が迫(せま)ってきています。「早く逃(に)げないと死んでしまう」。原田さんは、背中に傷を負った徳治さんと2人で駅を出て東へ進みました。

 道は、がれきや倒(たお)れた人でいっぱいです。頭が割(わ)れた人、手足や首がない人たち…。炎が迫っているのが分かりました。生死が分からない人の体を踏(ふ)みながら、逃げるしかありませんでした。むき出しの内臓(ないぞう)に足を取られ、足裏(うら)にぬるっとした感触(かんしょく)がありました。「自分が助かるため、みんなを見殺しにした。一番話したくない体験です」

 その日は中山村(現東区)の知人宅(たく)に泊(と)まり、翌日(よくじつ)自宅(じたく)に戻(もど)りました。爆風で天井(てんじょう)や壁(かべ)が落ちていました。消息を心配していたシズエさんとは、数日後に再会できました。

 戦後は大きな病気をせず勉学に励(はげ)み、大学に進学しました。卒業後、広島市役所に勤(つと)めました。

 被爆していることを意識し始めたのは、93年に原爆資料館の館長に就任(しゅうにん)したころです。「被爆の記憶(きおく)を語ることのできる最後の館長」と言われ、重圧を感じたそうです。「歴代館長の多くは被爆者だが、自分は大やけどを負ったり、体に傷痕(きずあと)が残ったりしていない。務まるのだろうか、と」

 着任してすぐに試練が訪(おとず)れます。米国の首都にあるスミソニアン航空宇宙(うちゅう)博物館の館長が来日し、被爆資料の貸し出しを求めてきたのです。広島に原爆を落としたB29爆撃(ばくげき)機のエノラ・ゲイ号と併せ、被爆資料を特別展示(てんじ)する構想です。「原爆を使った国の人たちに現実を知ってもらえる重要な機会」と、「黒焦(こ)げの弁当箱」などの遺品(いひん)を貸し出す検討(けんとう)を始めました。

 しかし、米国内で猛(もう)反対が起こり実現しませんでした。原爆投下が戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救った、と信じる人が今以上に多かったのです。原田さんは「きのこ雲の下の悲惨さをどう伝えるのか、課題と向き合うきっかけになった」と振り返ります。被爆50周年の節目(ふしめ)だった95年には、世界中から訪れた要人や報道機関への対応に追われました。

 原爆ドームの世界遺産(いさん)登録を目指す取り組みにも力を注ぎました。労働組合や被爆者団体などが約165万人分の賛同署名(しょめい)を集めてくれました。96年に登録されました。「行政と市民が手を取り合うことが平和の実現には欠かせない」

 原田さんは被爆者がいなくなる将来(しょうらい)、記憶が風化することを心配しています。原爆の悲惨(ひさん)さを伝える上で、「生々しさ」が薄(うす)まってきていると痛感(つうかん)しているそうです。「原点は被爆体験。これからの世代がしっかりと自分のことだと受け止めてほしい」と訴(うった)えています。(湯浅梨奈)

私たち10代の感想

共感力の大切さ感じた

 原田さんは、現在の原爆資料館について「脅威(きょうい)が十分伝わらない」と述べていました。世界各国にヒロシマを伝えることに尽力(じんりょく)してきたからこその言葉だと思います。原爆被害を発信するには、被害(ひがい)状況を想像する力に加え、被爆者の心の傷(きず)に寄り添(そ)う共感力が大切だとも感じました。(高3佐田よつ葉)

核兵器問題 発信続ける

 「もし原爆資料館内で被爆当時の状況(じょうきょう)を忠実(ちゅうじつ)に再現したら、誰も中に入れないだろう」という言葉が印象的でした。それだけ悲惨(ひさん)な光景を想像しようとしても簡単(かんたん)にはできません。被爆体験を自分のものにしてほしい、という原田さんの思いをしっかり受け止め、核兵器の問題について発信を続けます。(高2中島優野)

 原田さんのお話の中で、原爆投下後に「自分が逃げることで精いっぱいだったため死体を踏んで逃げることしかできず、内臓の中に足が入り、抜けなかった」という話が衝撃的でした。このような話は初めて聞きました。被爆後の広島の様子について貴重なお話が聞けてよかったと思います。

 原田さんはもともと被爆体験を話すことに抵抗があったそうです。このような残酷な話を聞いて、被爆者がなかなか体験を話せないという理由が、今回の取材でよくわかりました。これから、原爆投下後の悲惨な状況をもっと知り、原爆の怖さも含めて平和の大切さを伝えていきたいです。(中2山下裕子)

 ◆「記憶を受け継ぐ」のこれまでの記事はヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。また、孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2022年10月31日朝刊掲載)

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