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連載・特集

[ヒロシマの空白 証しを残す] 壊滅の街 米側写真に新視点(2023広島サミット)

G7開催地空撮 被爆5ヵ月後と比較

各国首脳 核兵器の実態理解を

 広島で世界で初めて原爆を都市の上空でさく裂させた米国は、その前例のない威力を調べるために多くの写真を撮った。壊滅した街を空から捉えた写真をはじめ、日本側の写真に見られないカットは数多い。ロシアによる核兵器使用の懸念が高まり、来年5月に広島市での先進7カ国首脳会議(G7サミット)を控える今、筆舌に尽くしがたい悲惨な結果をもたらす核兵器使用の実態を世界に知らせるために役立てるべきだ。米国側の写真から、焼き尽くされた街で奪われた命、被爆者が負った傷を伝える。(編集委員・水川恭輔)

 米中西部オハイオ州の国立空軍博物館に、被爆から約5カ月後の広島市の広大な焼け跡を収めた写真が残っている。米軍が上空から爆心地の東側を南向きに撮影した。壊滅した中心部の奥に、サミットの主会場候補のグランドプリンスホテル広島がある元宇品町(現南区)が見え、今の街との比較に役立つ。市の原爆資料館が6年前にデータを入手した。

宇品造船所勤務

 同ホテルがある辺りでは戦時中、1919年に設立された宇品造船所が操業し軍用船を造っていた。45年8月には、社員は職域義勇隊に交代で動員。米軍の空襲に備えるために建物を壊して防火帯を造る建物疎開作業に駆り出されていた。

 当時17歳で勤めていた班石(まだらいし)猛さん(2019年に死去)は、動員に出ていた同僚の全滅を89年執筆の手記に詳しくつづっている。

 手記によると、8月7日が動員日だった班石さんは原爆が投下される6日、造船所に出勤。造船学の本を読んでいると「ピカ」と光線が差したと記述する。元宇品町は爆心地(現中区)から約5キロ。ドカンと大きな音がすると爆風で割れた窓ガラスが飛び散った。外には「赤い入道雲のようなもの」が大きくなるのが見えた。

 6日は社員約160人が爆心地から約500メートルの旧天神町周辺へ作業に出ていたという。今の平和記念公園の南側辺り。班石さんが加わった救護班はトラックで現地を目指したが、御幸橋の先の広島赤十字病院方面は火の手が上がっており、代わりに造船所の船で元安川を上った。現場近くの土手に午前11時ごろ着いた。

 「全身は熱線で、皮膚は真っ赤に焼け、野菜(ニンジン)の色を濃くしたよう」。多くの負傷者の中から同僚を捜し、担架に乗せようと体を持つと皮膚がずるりと剝がれた。35人ほど救助したが、船上や戻った造船所で息絶えたと記す。

 遺体は造船所の広場で荼毘(だび)に付した。その後も11日まで行方不明者を捜したが、見つからないままの人も多かった。

動員の父戻らず

 現在は千葉県船橋市に暮らす被爆者の藤長薫さん(80)は、宇品造船所に勤めていた父朝登さん=当時(44)=を奪われた。当時3歳で、両親と6人きょうだいの8人家族。元宇品町に住んでいた。

 「父は、温和な性格で町内会の世話もしていたそうです。8月6日の朝食前、近所の墓に連れて行ってくれたことだけは覚えています」。動員に出たまま、遺骨も見つかっていない。

 第三国民学校(現南区の翠町中)高等科1年だった姉和子さん=同(12)=も同級生と爆心地から約1キロの市役所近くでの建物疎開作業に動員されていた。母アヤノさん(89年死去)が藤長さんをおぶって捜し歩き、御幸橋近くのけが人の中から「お母ちゃん」という声を聞いて見つけたという。だが、頭のやけどがひどく28日に亡くなった。

 働き手の父を失い、母子6人が残された。「生活が苦しく、母は何度も一家心中を考えたようです」。それでも母は造船所の下請け業者などで働いて子どもを育てた。藤長さんも小学2年から中学3年まで新聞配達をして家計を助けた。

 藤長さんはタクシー運転手などの仕事の傍ら、住まいがある船橋市の被爆者団体の活動に長年携わってきた。「原爆の後、残されて生きた人もつらい思いをした。何であっても、暴力で解決しようとしてはいけない。戦争や核兵器を使うことはもってのほか」。広島を訪れるG7首脳をはじめ各国の指導者に心の底から分かってほしいと話す。

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カラーも 原爆資料館が収集強化

 米軍による広島の撮影は1945年9月2日に日本が降伏文書に調印した後、日本本土への進駐の拡大に伴って本格化した。広島、長崎両市が79年に刊行した「広島・長崎の原爆災害」は、原爆の軍事的効果を徹底的に調べ、国防や戦略決定に関わる資料にするのが目的だったと指摘する。

 日本での空爆の効果を1150人体制で調べた米軍の戦略爆撃調査団は広島を重点的に調査。45年10~11月、建物や橋の破壊状況などを千枚以上撮影した。軍医らの調査で人体への影響を記録する写真も残された。米国側の写真は、当時珍しかったカラー写真が何枚も撮られているのも特徴的だ。

 広島市の原爆資料館は近年、米国に残る写真の収集を強化。2016~19年度に学芸員を米国に派遣し、国立空軍博物館など12機関が所蔵している写真の画像データを入手した。健在の撮影者の聞き取りにも取り組んだ。

 すでに知られた写真に写る人が名乗り出て、新たな情報が得られる例もある。皮膚を露出していた顔や首を熱線で焼かれた一方、頭部は帽子で遮られた少年の写真。福山市の神原繁夫さん(94)が04年、自分であると原爆資料館に申し出た。

 被爆当時17歳で陸軍船舶特別幹部候補生だった。宿営地となっていた、爆心地から約1.7キロの千田国民学校(現中区の千田小)の校庭で熱線を浴び、顔や首、左足に大やけどを負った。左耳の傷口はうじが湧き、激痛に襲われた。45年秋ごろ、広島市内の収容先に米兵がやって来て撮影したという。

 神原さんは06年、地元の被爆者団体の体験記集に手記を寄稿。さらにひどいやけどを負った市民の惨状に触れ、「再びあの様な事が繰り返されないように」と各国が核兵器廃絶へと行動するよう訴えた。原爆を使った米国側が残した写真であっても、撮られた被爆者の体験や思いに向き合うことこそが求められる。

(2022年10月30日朝刊掲載)

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