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社説・コラム

佐野眞一と宮本常一 「旅する巨人」にじむ共感 通いつめた瀬戸内の島

 ノンフィクション「旅する巨人」(文芸春秋)の著者佐野眞一が旅立った。物書きにとってはカリスマ的存在だったが、晩年は論難されることも多く、再起を期していたはずだった。民俗学者宮本常一は73歳で没したが、75歳も終止符を打つには早すぎる。

 佐野は1997年に宮本の評伝「旅する巨人」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞すると、矢継ぎ早に「大往生の島」(文芸春秋)を世に出した。いずれも宮本を生んだ山口県周防大島と属島の沖家室島に題材を拾い、その後もしばしば訪ねている。正力松太郎、石原慎太郎、小泉純一郎、孫正義といった権力者や成功者の評伝には挑発するような印象のある佐野だが「旅する巨人」「大往生の島」には対象への共感がにじむ。その違いが作風でもあった。

 佐野を囲む酒宴の末席に幾度か加わった。沖家室島の古刹(こさつ)・泊清寺や参道の民宿「鯛(たい)の里」で夜更けまで座談を聞く。初めて来島した頃の佐野は「この島は葬式が一番にぎわう。ええ時に来た」と迎えられ、ある古老がレーニンを引き合いに出して炭鉱労働運動の思い出を語り尽くすことに驚く。年寄りが年寄りくさくない世界。取材への礼状に「早速一月には二人大往生しました」と何ら湿っぽくなくつづられていることにも、いたく感じ入ったのである。

 佐野は取材の準備段階で高齢者福祉を巡る書籍を多数読んだが、絶望感に満ちたトーンにうんざりしたという。確かに沖家室島には都会の子や孫と離れて暮らす孤老が多いが、だからこそ畑を耕し漁に出て常に気を張って生きていると見て取った。三世代が土地にしがみついて生きる「東北型」の社会ではなく、同じ境遇の同世代がヨコにつながる「薩長土肥型」の社会であると見立てた。総じていえば「自立する民」へのリスペクトが「大往生の島」には通底していたのかもしれない。

 「旅する巨人」は宮本を民俗学者にとどめず記録者、離島や山村の組織者さらには家庭人といった多様な実像として描き切った。その功績は大きい。佐野は世が60年安保闘争に揺れる中学1年の頃、宮本の代表作「忘れられた日本人」を読んで、その「反時代性」に圧倒された。近代日本から置き去りにされた辺境の人たちの息遣いが聞こえるようだったという。しかし、没後は宮本自身が「忘れられた日本人」の一人になったと嘆き、その嘆きが評伝を手掛ける重要なモチーフとなる。

 佐野は物書きとしての在り方を取材しながら学んだと思える節もある。筆者も企画に参加した2004年の宮本常一記念館の開館記念フォーラム。佐野は「私は『人間は伝承の森である』『記憶されたものしか、記録にとどめられない』といった宮本の言葉に支えられ、作品を書き続けてきた」と発言している。「あるくみるきく」そして書く―人として感動したことを相手に伝えることは「生きる力」であり、それも宮本の精神だろうと発言を結んでいる。

 だが2012年、佐野は大阪市長橋下徹(当時)の出自を巡る週刊朝日の記事について連載中止と謝罪に追い込まれる。橋下という権力者への批判はあっていい。しかし文面に悪意だけが先走ってはいないかと筆者も危惧した。その後、60年安保の学生リーダー唐牛(かろうじ)健太郎の評伝「唐牛伝」(小学館)を16年に出して再起を図るかのようにも見えたが、病には勝てなかった。

 「旅する巨人」以降も「宮本常一が見た日本」(NHK出版)など宮本を論じた数冊の本を著しているが、佐野の他の評伝ではそのような例はない。体重計に生ビールのタンクを載せて代金をはじき出す、民宿「鯛の里」のアイデアを面白がっていた在りし日の佐野の酔眼を思い出して瞑目(めいもく)する。=文中敬称略 (客員特別編集委員・佐田尾信作)

(2022年10月29日朝刊掲載)

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