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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 米国側の写真 <2> 焦土の煙突

失われた日常 痕跡刻む

 米戦略爆撃調査団は1945年秋、広島市内一円に残るさまざまな煙突を撮影している。爆心地からの距離によって爆風による壊れ方がどう違うのかなどを調べたようだ。ただ、広島にとっては被爆前の街とその被害に迫る手掛かりになる。

 爆心地から1・1キロの幟町(現中区)の焼け跡では銭湯「きはらし湯」の折れた煙突を写している。音楽講師中野希彦(まれひこ)さん(49)=中区=は2年前、インターネットで検索していて原爆資料館(同)のデータベースにこの写真があるのを見つけた。「曽祖父が経営していたんです。よく残っていたなと」

 曽祖父の文次郎さんは1896年に現在の江田島市で誕生。商売のため広島市に出て原爆投下の20年ほど前に、きはらし湯を始めたという。45年8月6日は朝風呂に入っていて被爆。煙突を残して全焼した、きはらし湯の跡で遺骨が見つかった。倒壊した建物の下敷きになっていたとみられ、49歳だった。

 店主を失い、きはらし湯は途絶えた。中野さんは約3年前から、子どもが跡地近くの幟町小に入学したのをきっかけに歴史をたどっている。実家の父に写真を捜してもらうと、1枚だけ見つかった。きはらし湯の湯船に気持ち良さそうに漬かる文次郎さんが写っている。

新たな情報 期待

 中野さんはこの写真のデータを原爆資料館に寄贈。現在開催中の新着資料展で煙突の写真と並べて展示されている。「煙突の写真は、原爆の威力を調べるためのものと思うと複雑な気持ちも湧く。でも被爆前の写真と見比べ、今と同じような日常が奪われたことが伝われば」。展示を契機に、きはらし湯の新たな情報が寄せられることも期待する。

 同調査団の写真で煙突が写るカットは100枚以上に上る。資料館は被爆前の地図などを参考に、どの建物の煙突かを調べている。

 注目される写真の一つは、爆心地から約500メートルの本通り商店街(現中区)で撮影された一枚。煙突を拡大すると、上部に「か」に見える字、その下に薄く「ら」の一部のように見える跡がある。ある飲食店の可能性が浮かんでいる。

 うどんチェーンとして現在市内を中心に28店舗を展開する、ちから(中区)。兵庫県出身の故小林角蔵さんが35年、京都発祥の「力餅」からのれん分けし、本通り商店街で創業した。店は被爆当時の大林組広島支店の東側にあり、煙突の写真の撮影場所と符合する。

社内に資料なく

 「ちから繁盛記」(73年刊)によると戦前からうどんと餅が売りで、客席が25卓、約100人が入れる奥行きの長い店だった。終戦間際、防火帯を造る建物疎開の対象になったため小林さんは郊外に疎開していたが、被爆間もない中心街に入って惨状を目の当たりにした。早期の再起は断念して郷里に戻った後、51年に鉄砲町(現中区)で店を再開した。

 戦後生まれの孫の正記社長(66)に写真を見てもらうと、「初めて見ました」とのぞき込んだ。被爆前の店舗の写真は社内に残っていないという。「戦後当初の店も煙突があったので被爆前の店もあったはずです。ちからの煙突の可能性は当然あるが、戦後のものに比べるとかなり大きい」。そばの別の建物の煙突に広告として店名が書かれていた可能性も否定できない。

 米国側は機械的に撮ったはずの一枚。今の広島の街と被爆前とのつながりがうかがえる貴重な資料だ。(編集委員・水川恭輔)

(2022年11月1日朝刊掲載)

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