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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 米国側の写真 <3> 花柄のブラウス

やけどの苦しみ 鮮明に

 1945年秋、被爆後の広島市へ調査に入った米軍関係者は熱線を受けた衣服の状態にも関心を注ぎ、写真に記録した。赤色のバラの花柄部分が焼け落ちた白い半袖ブラウスの写真は、珍しかったカラーを含めて4枚が残る。1枚には「SHIBATA」と書かれた資料整理の札が見える。

 「見た途端、自分のものだと分かりました」。神奈川県大磯町に住む山本(旧姓・柴田)静江さん(98)は81年、県内の原爆展でこのブラウスの写真を見て鳥肌が立った。被爆時のつらい体験を思い出し、「一瞬、冷や水をかけられたような感じでした」と振り返る。

 静江さんは24年、米ロサンゼルス生まれ。祖父が広島から移民として米国に渡り、誕生時は母がロサンゼルスで宿屋を営んでいた。母が仕事に追われていたため、2歳ごろに祖父と帰国し、親族が暮らしていた広島市の東雲町(現南区)の家で祖父に育てられた。

 21歳だった45年8月6日の朝は、横川駅(現西区)近くの軍需工場に出勤するため、ブラウスを着て家を出た。洋裁を習っていた静江さんが、母が米国から送ってくれた布で仕立てたという。原爆のさく裂時には、広島駅(現南区)前を歩いていた。

 「バーっと光の中に包まれ、最初は電線のショートだと思った」。爆心地から約1・8キロ。左方向から爆風と熱線を受け、体が熱く、何が何だか分からなかったという。近くの防空壕(ごう)に逃げると、やけどで皮膚がただれた被爆者がたくさんいた。

 何とか自宅に戻ったが、左の手や足を大やけどしていた。治療は気休めに油を塗る程度。「畳で寝ている脇を少し歩かれるだけで痛かった」。脱毛にも襲われ、傷や症状がある程度落ち着くまで約3カ月かかった。

赤色が熱を吸収

 その間に着ていた服の提出を求められたが、詳しい経緯は覚えていない。だが当時米軍軍医中佐として市内で調査していたアヴェリル・リーボウ氏の「災害との遭遇―広島の医学日記、1945年」(65年刊)にこの服の調査の記録とカラー写真が載っている。

 同書によると、この写真は「特に注目すべきもの」として45年11月10日に米軍関係者と撮影した。「濃赤色のバラの花びらの部分が熱を吸収している。(葉の)緑色の部分は熱の吸収が少ない」(同書)。色による熱線の吸収の違いを分析していた。

 服を着ていた静江さんの手のやけども、肌が出ていた前腕に加えて半袖の花柄が焼け落ちた辺りが特にひどかった。やけど痕がケロイドとして残って左手を思うように曲げられず、皮膚の移植手術などを重ねた。

 戦後15年ほどは病気も繰り返した。それでも戦前からの知り合いで46年に結婚した夫聡さん(98)たちに支えられ、子ども3人を育てた。米国にいた母が戦後始めた貿易の仕事を手伝うため、神奈川県に移った。

被爆体験冊子に

 被爆体験は家族にもあまり話してこなかったが、同居する次男龍美さん(70)が3年前に詳しい体験を聞き取り、冊子にまとめた。龍美さんが観光で広島市を訪れた際、原爆資料館に並んでいたブラウスの写真を偶然見たのがきっかけだ。

 「ブラウスの写真を見て原爆の悲惨さを分かってほしい。母の被爆体験の記録がその役に立てば」。龍美さんは冊子を同館に寄贈した。その中には静江さんの思いも記されている。「核兵器は全面的に反対です。若者が被爆者の声を聞いて受け継いでいってもらいたい」(編集委員・水川恭輔)

(2022年11月2日朝刊掲載)

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