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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 米国側の写真 <5> 横たわる少年

苦難 伝え続ける役目を

 「これは自分です」。周南市の高齢者施設で暮らす河本謙治さん(95)は、訪ねてきた記者にそう力を込めた。写真には上半身にやけどを負い、左腕に包帯を巻いた痛々しい少年が横たわっている。被爆後の広島で調査した米戦略爆撃調査団が撮った一枚。43年前、本紙で初めて写真を見て自分ではないかと名乗り出た。

 河本さんは1945年8月6日当時は18歳。広島鉄道局に勤めていた。その日は爆心地から1・5キロの横川駅(現広島市西区)前で防空壕(ごう)を掘っていて、原爆に襲われた。「ピカッ」と光った瞬間、爆風に吹き飛ばされて体は硬直。熱線を浴びた肩や手の皮はめくれてぶら下がり、血が噴き出た。

 同僚の助けがないと動けなかった。広島陸軍病院三滝分院(同)へたどり付いた後、担架で再び横川駅へ運ばれ、救援列車で廿日市町(現廿日市市)の鉄道病院分院へ収容された。高熱と痛みで意識はもうろうとした。鏡に映った自分を見た時は絶句した。

情けなさ感じる

 10月の終わり、米軍の調べがあるからと、別室に移されたのを覚えている。通訳から片言の日本語で「米国をどう思うか」と聞かれ「こんな体にして絶対にかたきを討つ」と恨みをぶつけた。その時、「パチッ」とストロボが光った。撮影され、情けなさを感じた。

 「死ぬもの」と思った命は助かったが、年末に退院後も寝たきりは続いた。被爆から2年がたって復職してもケロイドは激しい痛みを伴い、長く働けない。自分を醜く感じ、寮の風呂には最後に電気を消して入るほど人目をはばかった。

 自分のペースで働こうと退職して現在の周南市内で飲食店を営んでいた79年。本紙を開くと、横たわる少年の写真が目に留まった。やけどは毎日見る自分の傷に似ている。「あ、俺じゃないか」と身震いした。

 すぐに本紙に連絡したが、当初は「別の人だったら、その人に申し訳ない」とも思っていた。すると、名乗り出たことを伝えた本紙記事をきっかけに、被爆後に同じ病室にいた女性も河本さんの写真の可能性を証言し、確信を強めた。

 ただ、記録面の裏付けは空白が残る。撮影時期は45年9月から46年3月までの間とされ、47年にまとめられた調査団の医学面の報告書はこの写真の説明に「Y.T. 19歳」と記す。時期は重なるが、名前のイニシャルと年齢は異なる。河本さんは通訳の日本語が不十分だったためと推し量る。

訴訟の資料にも

 河本さんが自分と語るこの写真は、癒えない苦しみを公に訴えるようになったその後の人生に欠かせない存在になった。「原爆症」認定は3度却下され、2007年に認定を国へ求める集団訴訟に加わった。訴訟の関係資料にも、この写真について書いた。訴訟は09年に一審で勝訴した。

 支援者とともに12年にまとめた自分史でも、この写真を紹介した。数年前までは、8月には広島市内へ出向いてこの写真をそばに置いて被爆体験を証言し、核兵器の悲惨さを伝えた。

 90代半ばを迎えた昨年から施設で暮らす河本さんは「原爆は二度と落としてはいけない。この写真は永久に残してもらいたい」と語気を強める。写真にはこの先も、その心身の傷を伝え続ける役目があるからだ。

 壊滅した街、生きながら焼かれた痛み、被爆後の苦難…。原爆を使った米国側の写真であっても、被爆地の視点で核兵器の非人道性を読み取ることはできる。被爆者たちの訴えと裏腹に核兵器使用の懸念が高まる今、写真を通じてその実態を世界に伝えることが一層重要になっている。 (山本祐司、編集委員・水川恭輔)

  (2022年11月4日朝刊掲載)

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