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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 米国側の写真 <4> 表札の教師

被爆した生徒 思い続け

 「新井寓(ぐう)」―。紙の表札に墨書きされていた文字は熱線で焼けて穴が開いている。1973年、米国側が収集した被爆関係資料を「返還資料」として日本側に引き渡した中の一枚。表札は爆心地から約3キロの広島市旭町(現南区)の寄宿舎のもので、熱線の影響の広さが伝わる。

 寓は住まいの意味。「新井」さんは、比治山高等女学校(現南区の比治山女子中・高)の英語教諭だった故新井(にい)道子さんだ。73年、中国新聞の記事でこの写真を見た教え子が本紙に情報を寄せたことで分かった。

 情報を受けて新井さん本人を取材した本紙記事(同年6月6日付朝刊)によると、29歳だった新井さんは同校が学校西側の民家を借り上げた寄宿舎で被爆。ありあわせの紙に書いた玄関の表札が焼けているのに気づき、学校に持ち込んだ。被爆当時の校長の故国信玉三さんは45年10月ごろに調査に来た進駐軍に見せたと話している。

 ただ、この記事だけでは新井さんの足跡は詳しく分からない。そこで当時情報を寄せた山口裕子(やすこ)さん(89)=東区=を訪ねた。「高校卒業まで新井先生と暮らしていました」。恩師との戦後を証言した。

寄宿舎での同居

 山口さんの家族は被爆前に市中心部の堀川町(現中区)で時計店を経営。あの日、12歳で同校1年だった山口さんは学校にいて助かったが、倒壊した自宅兼店舗にいた両親と祖母は被爆死した。姉2人も犠牲になった。

 原爆で家族や家を失って復学できない生徒が少なくない中、復学を切望した山口さんは県外の親類に学費の援助を受けて46年2月、比治山高女に戻った。同校は山口さんのサポートを新井さんに託し、寄宿舎で一緒に住むようになった。

 「新井先生が軍服を仕立て直して縫ってくれたカーキ色のセーラー服で通学しました」。食糧難の中、新井さんの着物を交換して食べ物を得た。一方で新井さんはたびたび病気になって寝込み、山口さんは何度も医師たちを呼びに走った。

 山口さんは高校を卒業して大阪で働いた後、教師を志して22歳で広島大を受験した。その際は当時大竹高(大竹市)に勤めていた新井さんが勉強に必要な教科書を職場で借りてきてくれた。合格し、大学で学んだ後は目の不自由な子どもたちの教育に携わった。

手記に残る追悼

 新井さんは晩年、長崎市の被爆者養護施設「恵の丘長崎原爆ホーム」で生活。山口さんは、独身で1人暮らしをしていた新井さんの入所を手助けした。心不全で89年に73歳で亡くなる前、施設からの連絡を受けて最期をみとった。「ありがとう」。山口さんを前に何度も繰り返したという。

 「本当にお世話になりました」。山口さんはしみじみと話す。カトリック信者だった新井さんの影響で山口さんも洗礼を受けた。「カトリック正義と平和広島協議会」が91年に刊行した被爆手記集の編さんに携わり、自身も被爆時や戦後の歩みを伝える文章を寄せた。

 一方、記者が新井さんの手記類を捜すと、同ホームの手記集「原爆体験記第三集」(85年刊)の中に唯一見つかった。教え子への追悼の思いが記されている。比治山高女は多くの生徒が軍施設に動員され、生徒73人と教職員2人が原爆で犠牲になった。

 「あまりにむごい死に方が、かわいそうでなりません。『安らかに眠ってください』と祈るばかりです」。原爆に焼かれた「新井寓」の文字を見るとき、苦難を強いられた生徒を支え、奪われた命を悼み続けた教師に思いをはせたい。(編集委員・水川恭輔)

(2022年11月3日朝刊掲載)

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