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連載・特集

緑地帯 野木京子 詩という友達と私①

 詩を書き続けていて、支えにしている言葉が幾つかある。その一つは「詩は本質的に対話である」。ドイツ系ユダヤ人の詩人パウル・ツェランの言葉で、もとはもう少し複雑な言い回しで「詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なもの」(飯吉光夫訳)という。ツェランは第2次大戦を生き延びたが、母はナチスの強制収容所で殺され、父も収容所で死んだ。大きな苦しみを経験した人だから「その本質上対話的なもの」の意味は深いものがあり、亡くなった父母との、そして世界との対話は苦渋に満ちたものだろう。それでも対話を通して父母の息吹を思い出し、再び会えた喜びもあったかもしれない。

 私もささやかながら、詩を書くたびに対話だと思ってきた。道端の花に語りかけると、花が何かを伝えてくれる気がする。亡くなった大切だった人を思い出して詩を書くとき、死んでしまったその人から、声が返ってくる。

 詩を書いていて驚くこともある。思ってもみなかった言葉が自分から出てくることがあるのだ。そういうとき、詩の言葉はどこから来るのだろうと不思議に思う。私の内側から来るのかもしれないし、外側から来るのかもしれない。いずれにしても、私が発した問いのようなものに、何かが言葉を返してくれたのだろう。

 「中国詩壇」の選者を続けさせていただいているが、たくさんの投稿作のそれぞれと対話をする気持ちで読んでいる。遠くから聞こえる声へ、声を返したい。 (のぎ・きょうこ 詩人=横浜市)

(2022年11月1日朝刊掲載)

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