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連載・特集

緑地帯 中島国彦 漱石と三重吉①

 今年2022年は、広島生まれの文学者、鈴木三重吉(1882~1936年)の生誕140年にあたる。三重吉といえば、鼻の下にひげをはやして笑っている、「赤い鳥」のおじさん、というイメージが強い。しかし、児童文学雑誌「赤い鳥」の創刊(1918年)は35歳のとき、53年の生涯の一部であり、それまでは日露戦後の小説家として活躍していた。岩波書店の「鈴木三重吉全集」全6巻が没後出版され(戦後1巻増補)、そこには小説家としての業績が集められており、三重吉の別の姿が浮かび上がる。

 9歳で母をなくした三重吉は早くから文学に親しみ、広島市内の旧制中学で、中国山地に位置する山県郡加計町(現安芸太田町)の旧家に生まれた加計正文と知り合う。京都の三高を経て1904(明治37)年に22歳で東京帝国大学英文科に進学、岡山の六高で学んだ加計と再び同窓となる。若き日、加計とは多くの手紙のやりとりを残した。現在加計家に残された三重吉の手紙は160通あまりで、学生生活や、文学への思いがつづられ、明治の青春が浮かび上がってくる。

 大学では15歳年上の夏目金之助(のちの漱石)の授業を受け、その学識と人間の魅力に感銘する。漱石が小説を書き出す前のことだ。先生のことを「金やん」と呼ぶ鈴木という友人がいますと、1年先輩の中川芳太郎が漱石に告げ、漱石も面白がって自分が出す手紙に「金やん」と署名したりした。2人の出会いの前夜のエピソードである。(なかじま・くにひこ 早稲田大名誉教授=東京都)

(2022年11月11日朝刊掲載)

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