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連載・特集

緑地帯 中島国彦 漱石と三重吉②

 大学1学年を終えた1905(明治38)年夏、三重吉は神経衰弱のため1年間休学して静養することにし、広島に戻った。実家で過ごしたり、8月はじめからは、佐伯郡の能美島(現江田島市)に滞在したりした。山中に帰省した加計正文には「僕はさびしいよ」と訴え、島に来てからは、「何事もわすれて心も若がへつた。身も軽くなつた」と書き送っている。9月には、中川芳太郎に託して「三間(さんげん)余の」長文の手紙を漱石に書き、それを読んだ漱石は、「頗(すこぶ)る達筆で写生的でウソがなくて文学的である」と中川に書き送った。ちなみに、漱石宅に夜分泥棒が入ったとき、三重吉の長い手紙で尻をふいて捨てたという出来事があったのは、ほほえましい。

 能美島の体験をもとに書いた最初の小説が「千鳥」である。10月ごろから広島の三重吉と手紙のやりとりをしていた漱石は、11月9日には、「君は島へ渡つたさうですね。何か夫(それ)を材料にして写生文でも又は小説の様なものでもかいて御覧なさい。吾々には到底想像のつかない面白い事が沢山あるに相違ない」と激励している。

 翌年、漱石は送られてきた「千鳥」の原稿を読んで、4月11日に絶賛の手紙を広島の三重吉に送った。「千鳥は傑作である」、「僕が島へ遊びに行つて何かかゝうとしても到底こんなにはかけまい。三重吉君万歳だ」という言葉が見える。作品は、「ホトトギス」の5月号に載った。まだ広島にいた若い作者は、漱石とも、高浜虚子とも一度も会う機会を持たないのに、新進作家として、さっそうとデビューしたのである。 (早稲田大名誉教授=東京都)

(2022年11月12日朝刊掲載)

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