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命の恩人と68年ぶり再会 爆心地から1キロで被爆 助けられる 広島の島田さん 「あの日」振り返る

 爆心地からわずか1キロの広島中央電話局西分局(現広島市中区)で被爆し、頭に大けがをしながら生き抜いた島田美津子さん(83)=西区=が、被爆直後に介抱してくれた「命の恩人」藤重忠子さん(88)=同=と68年ぶりに再会した。二人は被爆した場所を訪れ、「あの日」を振り返った。(増田咲子)

 進徳高等女学校(現進徳女子高)3年だった島田(旧姓松村)さんは、動員学徒として西分局で被爆、気絶した。意識が戻って屋外をさまよっていて、同じ西分局で働いていた藤重(旧姓曽川)さんに助けてもらった。顔は窓ガラスの破片で負傷し、頭は約15センチ切れて大量出血していた。

 藤重さんは爆風で飛ばされたが、大きなけがはなかった。火が迫る中、島田さんらを、対岸にあった畑の中の小屋へ避難させた。その後、倒壊を免れた西分局へ戻り、1階の部屋に寝かせた。大芝町(現西区)の家には帰らず、負傷した同僚らに付き添った。

 島田さんは翌7日、母親が捜しに来て元宇品町(現南区)の家に連れて帰ってもらえた。以来、藤重さんと会うことはなかった。しかし、10月28日の中国新聞に載った被爆証言を聞く企画「記憶を受け継ぐ」で藤重さんの記事を発見。中国新聞社を介して連絡を取り、再会が実現した。

 島田さんは、西区の藤重さんの家を訪問。戦前の写真を見せながら「互いに生きながらえ、こうしてまた会えるとは」と声をそろえて喜び合った。

 その後、今も残る西分局の建物へ。二人が被爆した3階や、負傷者が寝かされていた部屋のあった場所を見て回った。藤重さんは、島田さんの同級生が原爆で亡くなったことを伝え、「ここへ来ると惨状を思い出す」と涙ぐんだ。島田さんは「藤重さんは命の恩人。戦争は絶対にあってはならない」と感謝の気持ちを伝えた。

 被爆後、島田さんは傷が癒えるまで自宅で療養し、1945年秋に復学した。傷痕は今も痛むという。藤重さんも血便や脱毛など放射線の影響とみられる症状に苦しんだ。

(2013年12月23日朝刊掲載)

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