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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第4部 未来につなぐ <上> サントリーホール元総支配人 原武さん(83)=呉市出身

 プロ化50年を経て、日本有数の地方オーケストラへと成長を遂げた広島交響楽団。連載の締めくくりとして、広島ゆかりの音楽関係者3人に広響とともに歩んだ思い出と、未来へのエールを語ってもらった。(西村文)

「平和のため音楽はある」 アピールし続けて

草創期 満ちていた熱意

  ≪1963~68年、広島中央放送局(現NHK広島放送局)に勤務。広響結成に至る背景をよく知る≫

 当時のNHKは全国の拠点局にそれぞれ管弦楽団があった。広島放送管弦楽団(広管)は12、13人で、中心メンバーはコントラバスの田頭徳治さん(後に広響初代音楽監督)と指田守さん(後に広響初代コンサートマスター)。エキストラ(客演奏者)にも来てもらっていた。

 私が制作していた30分のラジオ番組では、クラシックや歌謡曲などを管弦楽用にアレンジして5、6曲、演奏していた。ほかにテレビ番組、ラジオドラマ、「のど自慢」などの伴奏も広管が担っていた。

   ≪やがて放送の多様化に伴って広管は解散することに。中心だったメンバーにアマチュア演奏家や学生たちが加わり、63年に広島市民交響楽団(市響)が発足した≫

 引き続き市響の練習にNHKのスタジオを使ってもいいという話になった。私はスタジオ隅の調整室から練習を見学していた。詰め襟の制服姿で練習に参加している高校生もいた。

 タクトを持って熱心に指導していたのは井上一清さん(後にエリザベト音楽大学長)。終戦から18年。中心メンバーは戦争を経験し、焼け野原のヒロシマを見ている。ヒロシマの地にオーケストラをつくるという熱意、音楽を奏でる喜びが満ちていた。

 ≪自らもかつては声楽家を志した。広島の歴史と文化的な土壌が、オーケストラを育んだとみる≫

 戦後、中学生のとき、レコード喫茶で聴いたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番に衝撃を受けた。音楽大を目指し、声楽を広島オペラ界の草分けである阿部幸次さん、ピアノを山上雅庸(まさつね)さん(後に広島大教授、市響第1回定期演奏会のソリスト)に教わった。

 そもそも軍楽隊の影響で市民に音楽が普及していた。優れた指導者に育てられた演奏家がいて、音楽好きの聴衆もいたことが、オーケストラの誕生につながったと思う。

 ≪オーケストラの運営の大変さを熟知した上で、広響の幅広い活動に期待を寄せる≫

 オーケストラは市民に愛されなければ存在できない。「すばらしい演奏を聞かせてあげましょう」という姿勢ではいけない。プロとして演奏技術の向上に努めることはもちろん、平和都市ヒロシマの楽団としての使命感を持って。創立者たちの思いを引き継ぎ、世界に向けて「平和のために音楽はあるんだ」とアピールし続けてほしい。

 若い世代に音楽のすばらしさを伝える活動も重要だ。私の故郷の呉市では広響と一緒に、小学生がリコーダーでオーケストラと協演する教育プログラムを推進している。子どものオーケストラをつくるのもいい。市民と一体となった活動を盛んにするためにも、拠点となる専用音楽ホールの建設が望まれる。

はら・たけし

 1939年、広島市牛田町(現東区)生まれ。6歳で被爆後、現呉市に転居した。63年、国立音楽大を卒業し、NHK入局。音楽部長、NHK交響楽団副理事長などを歴任した。2004~11年、サントリーホール総支配人。長年にわたり蘭島閣美術館(呉市下蒲刈町)のギャラリーコンサートをプロデュースし、今年4月から呉信用金庫ホール初代名誉館長を務める。東京都在住。

(2022年11月15日朝刊掲載)

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