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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 福田末子さん―姉を奪われ 戦後は困窮

福田末子(ふくだすえこ)さん(82)=広島市安佐北区

祈念館企画展が転機 初めての証言 手記に

 福田末子さん(82)は5歳で被爆し、一番上の姉アヤ子さん=当時(16)=を原爆で失いました。遺体(いたい)のそばで泣き崩(くず)れた母千恵さんの姿が、脳裏(のうり)に焼き付いています。「母の悲しみを想像(そうぞう)すると今も胸(むね)が痛(いた)い」と語ります。

 6人きょうだいの末っ子で、南観音町(広島市西区)に暮(く)らしていました。1945年8月6日の朝は、ご飯を食べ終え、2番目の姉春子さんと自宅の縁側(えんがわ)に座(すわ)っていました。突然(とつぜん)ごう音が響(ひび)き、気を失いました。爆心地から約2キロ。記憶にありませんが、爆風(ばくふう)で自宅の屋根は崩れ、母に手を引かれてその場を離(はな)れたと聞いています。

 一緒に旧福島川(現在の太田川放水路)の方角へ逃(に)げました。途中(とちゅう)ですれ違(ちが)った中学生ぐらいの男の子は、竹の棒(ぼう)が片目に突(つ)き刺(さ)さり顔中が血だらけです。悲惨(ひさん)な姿に驚(おどろ)きました。

 旧山手川沿いの農家までたどり着くと、母は「ここで待っていてね」と言い残し、自宅に引き返しました。目の前の川は潮(しお)が引いて浅くなり、けが人がぞろぞろと歩いています。多くは対岸に着く前に力尽きていました。至(いた)る所からうめき声が聞こえます。1人で不安でした。

 迎(むか)えに来てくれた兄嫁の玉子さんと旧山手川を歩いて渡(わた)り、己斐(現西区)方面にたどり着きました。けが人を運ぶトラックに乗(の)せてもらい、玉子さんの実家がある楽々園(佐伯区)へ。後に両親やきょうだいも逃げてきました。

 市中心部で勤労奉仕(きんろうほうし)をしていたアヤ子さんは、両足に大けがを負(お)いました。収容(しゅうよう)された平良村(現廿日市市)の国民学校から楽々園に連れて帰りました。傷口(きずぐち)に大量のうじがわき、「桃が食べたい」と苦しむアヤ子さんのために父千吉さんが必死に探したものの、どうしても手に入りません。8月20日、亡くなりました。

 火葬(かそう)するため、遺体を荷車に乗せて引いた時のことは忘れられません。母は泣いて座り込んでしまいました。「声を掛(か)けることもできず、ただただ隣(となり)で顔を見詰めていました」

 原爆で生活は一変しました。戦後、自宅は再建しましたが、被爆の影響(えいきょう)で父は寝込(ねこ)みがちになりました。食糧(しょくりょう)が尽き、数日間、空腹に耐(た)えたこともあります。福田さんは南観音小を卒業後、家計を支えるため中学校に通わず働きました。

 苦しい生活の「心の支え」になったのはカトリックの信仰(しんこう)です。被爆前から毎週、家族で幟町教会(現中区)に通っていました。45年末、教会の焼け跡にバラックが建ち、ドイツ出身のフーベルト・チースリク神父らとともに犠牲者(ぎせいしゃ)の慰霊(いれい)と平和のために祈(いの)りをささげました。

 19歳で結婚し、5人の子どもを育てました。姉の死やその後の生活については「思い出すと悲しみで胸(むね)がいっぱいになる」と考えないようにしてきました。

 しかし昨年、転機(てんき)が訪(おとず)れます。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)の「被爆外国人神父」をテーマにした企画展で、46年に市中心部の八丁堀でがれきの中に立つ福田さんとチースリク神父らを捉(とら)えた写真がパンフレットに使われていたのです。思いがけないことでした。当時を知る人は、すでに自分だけ。「何かの運命だろう」。被爆体験を祈念館の職員に聞き取ってもらい、初めての手記ができました。

 遠ざけてきた「あの日」の記憶。少しずつ振り返り「気持ちの整理がついてきました」。思い起こすとやはり涙(なみだ)が出ますが、「生きているうちに家族にも直接伝えたい」と思い始めています。(新山京子)

私たち10代の感想

誰もが学校行ける世界に

 「学校に行けなかったことが一番悲しかった」という福田さんの言葉が印象に残りました。戦争は罪(つみ)のない子どもたちの命を一瞬(いっしゅん)で奪(うば)います。戦争が理由で学校に行けない子どもも、たくさんいます。誰もが教育を受けることのできる平和な世界にするため、思いやりを持って人と関わることが大切だと発信したいです。(中3藤原花凛)

若い世代の犠牲 心痛める

 福田さんは被爆後の貧(まず)しさで心の余裕(よゆう)がなかったそうです。戦争や原爆は若い世代にも容赦(ようしゃ)なく被害を与えます。「若い世代を戦地に行かせたくない」という思いを聞き、ロシアによるウクライナ侵攻(しんこう)のことを思い浮かべました。決意して語ってくれた福田さんのような被爆者の声を世界に届(とど)けるため、できる行動をしていきます。(中3谷村咲蕾)

 福田さんは、竹の棒が目に刺さった男の子のこと、一人川岸で母親を待っていたこと、川で次々と亡くなっていく人が「まるで小さなアリのように見えた」ことなど、聞くだけでも辛い出来事を詳細に語ってくれました。福田さんは最近になって証言を行い、それまでは自分の子どもにすら原爆について話したことはなかったそうです。5歳の時の記憶なのに、リアルに覚えていることに驚きました。それほど衝撃的で頭に残る、残酷な出来事だったのだと思います。「戦争はくだらなくて、とても怖いこと、そして平和には、『思いやり』が必要だ」と言っていました。戦争も、相手の国への思いやりがあれば起こらないと思います。わたしも、家族や身近な人に「思いやり」を持って接していきたいです。(中2川本芽花)

(2022年11月21日朝刊掲載)

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