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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり] 反響編 感動をこれからも

 広島交響楽団の歴史をたどった連載に多くの反響が寄せられた。感動したコンサート、楽団員との思い出、未来への期待…。広響愛に満ちた声を紹介する。(木原由維、西村文)

ヒロシマの音楽 世界注目

♪ 入江乙彦さん

 被爆地広島にあるオーケストラとして「世界から注目されている」。広島市安佐北区の入江乙彦さん(78)は力強く語る。楽団の草創期にビオラ奏者として参加。連載第1部に登場し、当時の熱意と苦労を証言した。

 約10年前にインターネットの交流サイト(SNS)に「広島市に音楽専用ホールを作る会」を設け、600人を超える賛同者と情報交換をしている。思い描くのは、海外から演奏家や聴衆が集う世界水準のホールだ。「市民の力で実現したい」

公演を中継 喝采に心震え

♪ 若林弘美さん

 「オーケストラの公演は視覚情報も含めた総合芸術。広響の知名度アップになればと考えた」。RCCテレビの報道制作センター記者の若林弘美さんは振り返る。1997~2009年、中国地方向けに広響の公演を中継した番組「ひろしまシンフォニー」のディレクターだった。

 97年のフランス公演にも同行取材。広響が奏でたペンデレツキ「広島の犠牲者に捧(ささ)げる哀歌」に聴衆が驚き、拍手喝采を送る光景に心が震えた。放送後は大きな反響が寄せられた。「広響の存在の重みが伝わったのであればうれしい」

地域の宝 今こそ支え必要

♪ 上原昭彦さん

 「広響を支える財界人の情熱はすごかった」。56~89年に市民向け情報誌「政治経済セミナー」を発刊した上原昭彦さん(75)=安芸区=は思い出す。86年9月号の特集は「座談会・広島交響楽団と地域社会」。広島交響楽協会会長の橋口収・広島銀行頭取(当時)の呼びかけで、音楽監督だった高関健さん、広響ファンたちが集い、楽団の課題と将来像を語り合った。

 企業主催の冠コンサートでファン層の裾野を広げたい―という橋口会長の熱意が印象に残る。そして今、広響は新型コロナウイルスの影響で厳しい運営が続く。「地域の宝を一丸となって支えなければ」

共演 忘れがたい/仕事つらい時 励みに/広島離れても…

♪ 中川憲子さん(75)=広島市中区
 発足当時の演奏会に比べると、今日の楽団の発展は驚くばかり。楽団員の音楽文化を広める努力も寄与していると思う。印象深かったのは、広響が演奏したオペラ「はだしのゲン」(81、91年に上演)。子ども2人と鑑賞した。「平和の夕べ」コンサートも心に残る。

♪ 岡本光明さん(68)=南区
 高校生だった72年、プロ化記念演奏会に行き、ハイドン「ひばり」に感動した。広響のファゴット奏者だった恩師の誘いだった。ピアノ調律師になり、大好きな渡邉曉雄(あけお)さん(広響第2代音楽監督)と関わる仕事ができたのも大切な思い出だ。

♪ 古西博美さん(53)=東区
 クラシックやオペラが好きになったきっかけは、小学校の音楽の授業。若い女性の先生で、広響の公演にバイオリンやハープ奏者として出演していた。教わったグリーグの「ペール・ギュント」が面白くて、そのとき買ったレコードは今も大切にしている。先生の優しいまなざしが懐かしい。

♪ 峠邦枝さん(79)=東広島市
 92年9月のプロ改組20周年定演のオルフ「カルミナ・ブラーナ」が忘れがたい。合唱団の募集記事を見て、無謀にも申し込んだ。広響と同じステージに立てたという思いで有頂天になった。楽譜はずっと捨てられずに手元にある。

♪ 田坂量慈さん(69)=呉市
 教員になった私は教育現場の大変さに直面して、何度もやめようと思った。そんな私を広響は励ましてくれた。何十回と通った演奏会の中でも、85年のベートーベン第九(指揮・渡邉曉雄)、2004年のドボルザーク交響曲第8番(下野竜也)、06年のマーラー「悲劇的」(秋山和慶)などが心に刻まれている。

♪ 大浜秀則さん(63)=廿日市市
 吹奏楽部に所属した高校時代、雲の上の存在だった広響メンバーに指導いただき、夢のようだった。02~05年の夏、マーラー「復活」を演奏した「ROAD TO PEACEコンサート」が印象に残る。戦禍のウクライナに、広島からこの曲を発信してほしい。

♪ 米田壮志さん(49)=山陽小野田市
 広島に住んでいた15年間、毎月広響を聴きに行っていた。翌朝は通勤の足取りも軽かった。広響は日常に溶け込んでいたが、母の体調が悪くなり、Uターンすることになった。1年後、再び広島で定演を聴いたときは感無量だった。離れても、広響のシンフォニーは私の心に響き続ける。

 連載「プロ化50年 広響ものがたり」は今回で終わります

(2022年11月19日朝刊掲載)

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