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連載・特集

緑地帯 中島国彦 漱石と三重吉⑤

 1907(明治40)年1月の「ホトトギス」には、社会の矛盾を批判する漱石の「野分」、美的感情の横溢(おういつ)する三重吉の「山彦」が同時に掲載された。この時点の二人の文学への意識の違いが際立つ。学生作家である三重吉が、最初の作品集「千代紙」を刊行したのは、この年の4月である。短編「三月七日」を急いで書き、三つの作品で一冊とした。本の題の「千代紙」というのは、全体の雰囲気を示すものであったろう。同じ漱石門下の松根東洋城(とうようじょう)の装幀(そうてい)、若い小宮豊隆が校正を手伝ったという。折り鶴が描かれる表紙を開けると、「漱石より」とあり、巻紙に印刷された三重吉あての漱石の墨の手紙が、畳んで最初に挿入されている。序文代わりなのである。日本近代文学館から刊行された複製を手にすると、こうした意匠は印象的だ。三重吉は、漱石先生の庇護(ひご)のもと作品を書いてきたと、印象づけたかったのである。

 三重吉が東京帝国大学を26歳の年で卒業したのは、翌年7月である。その間、漱石は駒込西片町に一時転居し、その後朝日新聞社に入社、1907年9月29日には終(つい)の棲家(すみか)となる早稲田南町7番地に転居した。引っ越しは飼っていた猫も一緒で、籠に入れて運んだのは三重吉だったという。三重吉は早稲田への引っ越しの直後、10月に漱石に文鳥を飼うことをすすめた。漱石の小品「文鳥」は、その時のことを描いた作品だ。「鳥を御飼ひなさい」「文鳥です」と畳みかける三重吉に、漱石は文鳥を飼ってその姿を眺める日々を送る。名作「文鳥」を生み出すきっかけも、三重吉の一言だったのである。 (早稲田大名誉教授=東京都)

(2022年11月17日朝刊掲載)

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