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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <1> 軍都の引力 職求めて流入 清張の父母も

 外地などで戦死した兵士らの墓石約3500基が並ぶ比治山(広島市南区)の陸軍墓地。ここからの展望は南に開けている。陸軍被服支廠(ししょう)だった建物群の延長線上に兵士たちを海外の戦場に送り出した宇品港、その沖合に似島が浮かぶ。

 日清戦争が明治28(1895)年に終わった後も、広島は軍都として膨張し続けた。旧宇品線に沿って陸軍の兵器、被服、やや離れて糧秣(りょうまつ)の各支廠が次々に立地。宇品港に運輸部、似島に「世界無比」とうたわれた近代的な検疫所ができた。

 日清戦争後に機械工業化が一気に進み、貧富の格差も広がった。明治32(99)年に横山源之助は「日本の下層社会」を著し、深刻化する都市の貧困問題を取り上げた。産業革命は労働力の移動も促す。職を求める人々が水に流される砂粒のように発展中の軍都にたどり着いた。

 鳥取県日野郡矢戸村(現日南町)生まれの松本峯太郎もその一人。養父母宅を出奔して大阪に赴き、開戦の明治27(94)年、21歳の時に広島に来た。松本清張の父である。

 清張の自伝「半生の記」や私小説的な「父系の指」によると、峯太郎は広島県の警察部長の家で書生をしながら法律の勉強をした。弁護士を目指すつもりが警察部長の転任で挫折し、陸軍の衛戌(えいじゅ)病院で看護雑役に就く。

 清張によれば、その後も峯太郎は広島で「相変わらず底辺をうごめいて」いて、人力車を引いていたようである。そして明治30年代、広島県賀茂郡西志和村別府(現東広島市志和町)出身で6歳下の岡田タニと一緒になる。

 タニは広島に出て紡績会社の「女工」になったようだ。「日本の下層社会」は、「12時間労働で昼夜2交代の紡績工女は欠勤や契約年限中途の退職が多い」と記す。大阪では女工の4割以上は未就学で、寄宿舎に教場を備えていても長時間労働ゆえ、教育は困難と指摘している。

 「紡績工女のつらさ」を清張に話すことがあったタニは小学校に通っておらず、字が読めなかった。

 両親の貧乏生活は続く。女児2人が生後間もなく亡くなり、明治42(1909)年2月に清張が広島で生まれた。(山城滋特別編集委員)

 松本清張の出生地 生後間もない写真の台紙に「広島京橋」、裏に「明治四十二年二月十二日生」の墨書が残る。写真発見まで、一家が広島から移って同年12月に出生届を出した小倉(現北九州市)が出生地とされていた。

(2022年11月22日朝刊掲載)

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