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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <3> 近代化の陰 地方の民力育成へ青年組織

 備後灘に突き出した沼隈半島の山ひだに山本滝之助の生家はある。広島県沼隈郡千年(ちとせ)村草深(現福山市沼隈町)のこの家から訓導として勤めた常石尋常小学校への道すがら、山本は本の構想を練った。

 明治29(1896)年に自費出版した「田舎青年」は、進学や上京の夢がかなわず中央から見捨てられた若者の悲憤の書である。

 明治5(72)年からの学制は、国の近代化の担い手づくりを目指した。立身出世や四民平等について子どもたちは教わるが、農村の現実とのギャップは大きかった。

 国の将来を背負って立つ「青年」と呼ばれるのは都会の学生や書生に限られており、田舎の若者は将来の夢や希望を持てない。国中の大多数を占める田舎の若者が無気力のままでは、社会も国も活気を失う―と山本は問題提起した。

 地方自治制度が導入されて役場ができ、若連中の村での役割が減っていた。山本は、田舎の若者が「青年」の自覚を持つために各地に青年会をつくることや、その全国組織の設立を提案した。

 明治政府による西洋文明の導入はエリアでは都市部、分野では工業に偏っていた。田舎青年の問題は、都市での貧困層拡大と並ぶ近代化の陰の部分だった。山本の主張はやがて内務省の若手官僚を触発し、地方の民力を引き出すための国による青年団育成策につながっていく。

 官主導での青年組織づくりは、上からの統治の道具にされる危うさもはらんでいた。後に軍部が積極的に介入し、総力戦体制の一翼を担うことになる。

 当時、山本の本は売れず、出版費用の借金を田畑を売って返す羽目に。それでも新聞「日本」の五百木(いおき)良三記者だけは好意的な書評を載せ、励ましの手紙をくれた。

 山本は「日本」紙上に青年読者による日本青年会の設立を提案して採用となる。約500人が加わり各地で会合も催した。明治34(1901)年9月、五百木の招きで待望の上京。眼病治療をしながら医学雑誌社に勤め、多くの人と交わった。

 8カ月後に帰郷し、常石尋常小の訓導、後に校長兼務の傍ら月刊誌「吉備時報」を刊行した。(山城滋)

吉備時報
 山本の個人編集雑誌で明治35年から大正元年までの10年間に95号を刊行。青年団体の動向を含む各種地域情報を発信し、論説も載せた。毎号数百部の発行経費を賄うため休日は広告取りに回った。

(2022年11月24日朝刊掲載)

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