×

連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅴ <2> 「田舎青年」 地方の若者 覚醒を促す著作

 松本清張は、腕を手枕にしてもらい父から故郷の話をよく聞いた。

 「矢戸はのう、ええ所ぞ、日野川が流れとってのう、川上から砂鉄が出る。大倉山、船通山、鬼林山などという高い山がぐるりにある。船通山の頂上には根まわり五間もある大けな栂(つが)の木が立っとってのう―」(「父系の指」)

 幼い清張は川の流れや山容、巨大な木を想像しながら、何度聞いても飽きはしなかったという。

 捨てた故郷に愛着を抱き続けた父は結局、鳥取県矢戸村(現日南町)に帰らなかった。母も17、18歳で広島県の西志和村(現東広島市志和町)を出たきりだった。帰郷できるような生活ではなかったからだ。「父も母も『旅』で人生を終わった」と清張は「半生の記」に記す。

 日清戦争後の経済変動で都市に貧困層が広がったが、政府は軍備拡張のため国民負担を重くした。清張の父母のように条件のよい職を求めて「旅」にさまよう人々が増えた。

 一方、時代は移り変わっても在所の農村から離れ難い若者たちも大勢いた。広島県沼隈郡千年(ちとせ)村草深(現福山市沼隈町)の生家に親と同居する山本滝之助もその一人だった。

 明治6(1873)年生まれの山本は清張の父と同世代。向学心の塊で、零細農家の懐事情から中学進学を断念するも英語を独学した。雇われた村役場で新聞や雑誌を熟読する。立身出世のため上京の志を固めるが、父母は長男である山本の離村を認めなかった。

 山本は地元の小学校に勤め始める。そこで目にしたのは、小学を出て「若連中」という集団に入り、将来の希望を持てぬまま飲酒や喫煙、夜遊びにふける若者の姿だった。

 山本は明治23(90)年、千年村役場職員や教員、僧侶と教育談話会をつくり、時事や若連中の問題を語り合う。日清戦争が始まると、千年少年会でわらじ800足を作って海軍に納めた。

 「青年」という言葉が都会の学生だけを指すような風潮に山本は不満だった。田舎の若者が自らを青年と自覚するために青年会の結成を思い立ち、原稿を書き始めた。明治29(96)年に「田舎青年」を自費出版する。22歳だった。(山城滋)

山本滝之助
 1873~1931年。沼隈郡青年会の活動を経て、地方青年団体の全国組織化を主導した。「青年団運動の母」と呼ばれ、全国巡回青年講習会で会った多くの若者と手紙交流を重ねた。

(2022年11月23日朝刊掲載)

年別アーカイブ