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連載・特集

[ヒロシマの声 NO NUKES NO WAR] 「ピカの村」続く苦しみ 川内・温井義勇隊遺族会会長 柳原有宏(やなぎはら・ありひろ)さん(79)=広島市安佐南区

 ≪旧広島県川内村(現広島市安佐南区川内)の生家に今も暮らす。2歳の時、母満子さん=当時(37)=が爆心地付近で被爆死。国が地域や会社ごとに編成させた「国民義勇隊」の一員として、空襲に備えて防火帯を造る作業中のことだった。満子さんを含め、動員されていた約200人が全滅。その悲劇を語り継ごうと、中学校教諭を定年後、遺族会の世話を続ける。≫

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 川内は爆心地から北に10キロも離れた郊外にある。なのに戦後は「ピカの村」と呼ばれた。あの日、村内の温井と呼ばれる集落に出動命令が出され、大勢の住民が建物疎開作業に駆り出されていたんです。爆心直下だったから、一人残らず犠牲になった。夫や親を奪われた女性や子どもばかりが残され、悲惨な生活をしている村として知られることになったんです。

 10年前に遺族会会長を引き受け、住民の記憶に触れてきました。放射線に体をむしばまれるとも知らずに市街地で親を捜したが、遺骨さえ見つからなかったこと。全身を焼かれながらも奇跡的に家に運ばれて帰った家族が、目の前で苦しみ抜いて息絶えたこと…。

 夫を亡くした妻は70人以上いました。悲しむ間もない。畑を耕し、日雇い労働にも出て、必死に家族を養ったと聞いています。孤児となり、飢えに苦しみ抜いたきょうだいもいた。皆、どん底を味わったんです。

 うちは軍需工場に勤めていた父に代わり、母が作業に出た。それきりです。父が1カ月間、市内を捜し歩いたが、何も見つからなかった。私は足手まといだったんでしょう。連れて行かれず被爆せずに済んだ。でも母の記憶は一切ない。父も仕事に追われ、それは寂しい幼少期でした。

 悲惨な戦争が繰り返されている。やりきれません。核が使われれば川内のように根こそぎ命を奪われかねないし、放射能は国境を越えて流れていく。もちろんロシアにも。生きて戦後を迎えても、人々の苦しみは続くのです。(聞き手は編集委員・田中美千子)

(2022年11月25日朝刊掲載)

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